長女が産まれた頃のこと 2
さて。
無事産まれたは産まれたが、557gというグリーンダカラちゃんより少ない体重、サイズは片手の平に余るサイズで産まれた長女。
専門病院のNICUはそんな子は当たり前に沢山いた。
専用のクベースにいると、パッと見どこにいるかちっともわからん。と言いたいところだが、良く出来たもので、物覚えの良くない夫も私も、退院するまで長女の顔と場所は一回も間違えなかった。
ひと目見た途端に、『可愛くて可愛くてどうしましょう』だった。あと、こんなに小さいのに驚くくらい夫に似ていた。人間て、本当に良く出来ている。
ありがたいことに、こんなに小さいけれども、外見的に欠損はなく、内臓機能も大きく問題はないとのことだった。心肺機能以外。
しんぱいきのう。今の私なら心配とあてたくなるが、冗談言ってる場合でなく、特に胎児の肺は、妊娠後期に完成する機能なので、案の定長女は片手サイズにも関わらず、気管挿管されていた。もうミニチュア模型を見ているようだ。また、完成の遅い肺の代わりに循環器官の役割を持つ動脈管も開いたままで、普通に産まれた赤ちゃんは外気に触れ肺呼吸することで自然に閉じるが、長女は妊娠中期に強制分娩した為、まだ閉じていなかった。
そして消化管。小さすぎる口で直接哺乳なんか出来るわけもなく、鼻から胃管を入れられている。これで直接胃に母乳を流す。でも消化は未発達なので点滴で補う。
こんなに小さいのに体はルートだらけ。挿管・胃管・点滴ルート2箇所・心電図モニター・サチュレーションモニター。
でも凄い。生きている。小さい時は、とにかくそれが全てだった。この小さすぎる命を生かし続けるために、医師と看護師と私は頑張らなければならないのだ。本人の生きようとする力も大事すぎるほど大事なんですけども。
なんで私が入っているかって?そりゃ勿論、こうした超低出生体重児の育児に最も必要なのは、最先端医療器具でも経験豊富な医師の判断力でもなく、私が出す母乳だからです。
出産が終わり、私が離床するようになってすぐ、担当の小児科医から挨拶兼現状の説明があった。
担当医師は、当時高齢出産にギリひっかかった私より明らかに年下の、ちょいと優柔不断そうな気の弱そうなお兄ちゃんだった。仮に田中とする。
田中くんは、挨拶もそこそこに長女の現状説明をかなり噛み砕いて説明した。わざわざ書面もくれた。それによると、長女は心肺機能は医療機器で維持しているも貧血が強い。そのためチアノーゼも起きてるし、これからしばらくは輸血していく。また、循環機能が未発達のために出にくいおしっこを出しやすくするための利尿薬も使ってるとのこと。モニタリングは欠かせず、この3日、一週間、1ヶ月が山場ということ。母乳栄養は未成熟な消化管でも吸収出来るために少しでも良いから提供するようにとのことだった。この時は、はいはいふんふんなるほどね〜みたいな態度だったが、その後部屋で私は検索の鬼となった。勿論、ママリとかネバーとかYahoo!知恵袋を見てた訳ではなく、とにかく小児科学会の論文とかを必死こいて読み漁った。私には小児科、ましてや異常出生児の知識なんてほとんどなかったから。
超低出生体重児は、近年増えてきてはいるが、その予後は本当にまちまちで、十何年後には何事もなかったかのように暮らしてる子もいるし、医療ケア児として暮らさざる得ない子もいる。毎日エヌに行き、長女を眺め、その傍らで田中くんや看護師さんと話して情報共有し、質問やらをする。3時間ごとに搾乳もして、お届けもした。それしか出来なかった。産まれて1ヶ月経っても、長女をだっこしたことはなかったから。
母乳育児の辛さって、出ないことによる猛烈な無力感だと思う。週数が浅いせいか、私の母乳はまったく増えなかった。母乳信仰が強い病院で、これだけしんどいことはない。ましてや私は超低出生体重児の母親。しんどい私に、看護師も助産師も、がんがんアプローチしてきていた。胸が張るのに出ないとは何事か。見掛け倒しが過ぎる、私のFカップ。入院の後半は、もう毎日毎晩泣いていた。出ない自分が情けなかった。あまりに出ないので、病院の母乳外来で処方されるくらいだった。しかもこれは、飲めば瞬く間に母乳が出る奇跡の薬ではない。ただのナウゼリンだ。吐き気止め。訝しむ私に、これは副効用で乳汁分泌があり、それを狙って出すものとのことだった。皆さん、知ってますか。本用途以外で内服薬を処方すると、倍以上の支払いが発生します。自由診療扱いだからです。私はこの時初めて知りました。嘘やん、そんなことある?
気持ち悪くもないのに吐き気止めを飲み、食事に気を使い、水分をめっちゃ取りしても、私の母乳は一定ラインから増えなかった。ただ、やたら腹が減って夜中に食って体重をイタズラに増やしただけだった。
そんなことをしてる間に、帝王切開患者の私は退院の日を迎え、長女だけが先の見えない入院生活を迎えた。私の通院生活も、次の日から始まった。
夫は仕事だった為、抱く赤ちゃんのいないひとりぼっちの帰り道。手術の傷は痛いし、予想以上に体力が落ちていて荷物は重くなるしで、最寄り駅まで帰ったところですっかり具合の悪くなった私は、ともだちに車で迎えに来てもらった。すごく具合の悪い顔をしていて座り込んでいた私に、街頭演説していた政治家が気軽にタメ口で『お疲れ様!頑張ってね!!』と握手をしようとしてきたことも、忘れられない超腹立つエピソードの1つである。うるせえこちとら人生でこれ以上ないくらい頑張って歯あ食いしばって生きてんだよ。お前に何がわかるんだ。気楽に声かけてくるんじゃねえ。絶対お前に投票なんかしねえからな。と頭の中で思いつく限りの罵詈雑言を飛ばして握手はシカトした。こんなんで、明日から通院かぁ…とすごく不安にも思った。
続きます。
余談ですが、写真は出生したばかりの長女です。何もかも小さく、個人情報の判別にもならないと思ったので出してみました。不織布ガーゼやらシーネやらに囲まれまくってて顔もほとんど見えてないのに、新鮮な臍帯だけはよく見えてたのは覚えてます。
あと、かなりどうでもいいけど、上下逆でした。
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