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長女が産まれた頃のこと 4

長くなってすみません。
まだ続いてます。

手術を言い渡され、母乳もうまくいかず、泣きべそかいた私ですが、特に看護師さんには慰められなかった。いや、もしかしたら何か言ってもらったのかもしれないけど覚えてない。どっちもやらなきゃいけないことだから泣いてもしょうがないけどストレスコーピングの一種として感情表出しただけなので、気にしないで欲しいという気持ちが忘却を促したのだろうか。
看護師さんからのアクションは覚えてないが、この頃くらいからMSWと会うようになった、気がする。なんせ何年も前の話なので、記憶が曖昧だが、この人にはよく話を聞いてもらったし、慰めてもらったりもした。医療ケア児になった長女との退院後の生活について一緒に考えてくれたのでちゃんと覚えてる。
 当日、長女の手術は、4時間くらいだった。この日も夫は仕事だったので、私は手術室の前の廊下で独りでボサッとしたり、病院の中のカフェで飲みたくもないコーヒーとか飲んでいた。
 時間潰しに本等持ってきたが、気になって全然内容が頭に入らないし時間は流れない。
 ウロウロしても、他の患者家族の邪魔になるし…と思うとなかなか身動きが取れなかった。したけど。
 こういう時、小学校の通信簿に書かれた『落ち着きがない』が出てくる。先生、私多分ADHDです。忘れ物もクラストップ5入りだったしなぁ。勉強出来たから許されてたよなぁ。等など、体の代わりに意識を散らしながら、どうにかやり過ごして、朝から手術した長女が出てきたのは昼過ぎ。   その日の手術は簡単なものが多かったのか、手術室に最初に入って最後に出てきた長女は、少しだけ減っていたルート類をまた全て再装着していた。このビジュアルにも結構ショックを受けた。また1からやり直しかという気持ちで落ち込んでしまった。無事に終わって良かったという気持ちも勿論あったのだけれども。
 しかしそれでも、動脈管開存症というのは、新生児疾患の中で4大先天性心疾患。その中でも最も最弱…もとい深刻さの低い疾患である。なんせ、『開きっぱなしなら閉じればいいんでしょ?』という感じで、閉鎖してもらえれば、後は元々そうなる予定だった循環動態に移行していく。現に、小児循環器の医師は、穴が小さくて閉鎖出来なかったけど、クリップで留めました。と簡単に教えてくれた。

ここの医師は、主治医の田中くん以外は非常に簡単に話をしてくれる。その気軽さが質問いつでも受け付けます、なんでもどーぞと言う感じで、私にはちょうど良かった。主治医の田中くんだけがいつも神妙な顔で私に話しかけてきていたのは、私が看護師だからだろうか?年上だからか?今となってはわからないが。

 さておき。術後、長女はどんどん回復し、酸素吸入だけがついているだけになった。田中くんにいつも絶賛されていたが、長女は消化管が丈夫で、一度も吐き戻したり下痢便秘になることはなかった。母乳のおかげですね、と言われ、素直に嬉しい気持ち30%それなのに全然でなくてすみませんの気持ち30%それお世辞かね?20%でももう音を上げたいんですよ20%のカラフルな円グラフの気持ちで半笑いで返した。本当はもう母乳をやめたくて仕方なかった。

 年が明けた頃、長女をようやく抱っこしても良いと許可が出た。まだ挿管されてはいるが、母子の愛着形成を確立すべく状態が安定した児には積極的に行っているとのことだった。

 初めてのだっこは、前をはだけて、肌と肌が密着出来るようにすると言われた。長女は治療のためにオムツ一丁で一定の温度で保たれたクベースにいるので寒くはないが、抱っこすることで外気に触れ、母親の体温や匂いを体感するのだ。

 初めて抱っこした長女は、あんまりにも軽くて、でも温かくて、柔らかくて、まるで産まれたての仔猫を抱いているかのようだった。

 乗せられてすぐは胸の上でもぞもぞしていたが、少し経つと安定したポジションを見つけてくうくうと眠りだした。

なんて可愛くて小さい命!

 忙しさと疲労でめったに面会しなかった夫も、抱っこできるようになったと言った途端にすぐ面会に来た。そして一回目の抱っこで泣くくらい感激していた。わかるわかる。でも、貴方そんなに感激するほど大したことしてないからね。母乳頑張ってるのも面会通院毎日やってるのも全部私だからね。と言うのも野暮だが視線でそれくらいの圧はかけた。

 でもこの抱っこ効果は親側にはかなり大きくて、少なくとも毎日の面会の張りになった。母乳はそれでもちっとも出なかったけど。

 別に面会は強制ではない。毎日しなくても良い。でも、母乳育児してて、母乳がなくなるのはマズい。だから私含め患児の親のほとんどは必ず毎日来ていた。だけど、私は徐々に母乳が出なくなっている自分に焦り、通院がかなり苦痛になっていた。体を休めなければ、と言い訳をして1日いかないと、電話が来る。母乳がもうない、と。これが最後の爆発の引き金になった。

 ある日、また病院から電話が来た。

 母乳のストックがもうない、と。聞いていて頭がおかしくなりそうだった。泣きながら、もう母乳出ません!と病院に電話した。どんなに頑張っても、出ないんです。薬飲んでもマッサージしても出ないんです!と訴えた。最後は叫んでたと思う。電話そっちのけで号泣した。言われた看護師さんはちょっと引いていた。と思う。

 仕事中の夫にも電話した。頭がおかしくなりそうだ。もう死んでしまいたい。とはっきり言った。本当は、もう長い間ずっと、母乳育児は私にとって、それくらい苦痛だったのだ。

 誰にもどうしようもない話だが、夫は驚いて、そんなに辛いなら止めたらいい。と繰り返した。もう十分頑張ったし、病院には自分が言ってあげるから、と言ってくれた。

 今思うと、完全に産後鬱というか母乳ノイローゼだった。

 次の日、泣きながら絞った母乳を持っていくと、田中くんがいつも以上に神妙な顔で私の側に来て、長女は消化管が丈夫だから、少しずつミルクと混合でやっていきます、と言ってきた。誰に言われたんだか知らないが、母乳外来の先生も、あっさり私の母乳を諦めた。多分、光の速さで私の母乳ノイローゼの話が出回ったんだろう。

 斯くして、私はようやく母乳育児から開放された。

 母乳育児から開放されたら、気持ちはかなり楽になった。これまでも長女が可愛くないと思ったことは一度もないが、気持ちにゆとりができた分、ますます可愛くて仕方なかった。

そして、直接母乳できる頃にはすっかり分泌量の減った母乳に、長女は何口か吸ってもういらない出ないし、とばかりに首をそむけた。思わず笑ってしまった。そうだよな、出なけりゃ吸うのめんどうくさいよなぁ。

 長女も成長と共に挿管が鼻からの呼吸器になり、見慣れたナザールになっていって、そろそろ退院の話が出るようになったのは、入院から4ヶ月目。秋に産まれたけど、季節は早春に移り変わっていた。

長女はやはり、呼吸器未成熟の為に、在宅酸素で退院することになった。でも、ちっとも大変だとは思わなかった。これくらいで済んでむしろ全然楽だと思った。

在宅酸素導入の為の業者や訪問看護師の手配は全部MSWの方がしてくれたし、医療機器の取り扱いも慣れてるし、特に心配なことは何もなかった。

自分がなんで看護師になったか、これまではお金の為、食いっぱぐれない為だと思ってた。自分の為に取った資格という感じはあんまりなかった。

でも、長女が産まれて初めて私は『看護師になってよかった』と思えた。

産科で働いてなかったらわからなかった産科的緊急事態への対応・訪問看護でわかった在宅療養生活のイメージ・基本的な疾患への理解…全部、こどもとの生活に活用できることだった。

長女はこの後、毎年のようにインフルエンザにかかり、毎年入院した。いろんな小児科医師に会ったし、小児科疾患の理解が低い医師や内服の知識がない医師とはかなり戦った。看護師として理論武装していけば、ある程度渡り合えるのだ。

未だに、長女が産まれた病院へは年1回か2回通院している。様子見半分、データ提供半分だ。

近年増えてきている低出生体重児の成長データはまだ少なくて、これからどんな風に成長するのか数年単位で追っていくことで量的データになる。助けてもらった命を繋ぐ為にも大事なことだと思う。

本人はそんなことちっとも覚えちゃいない。でもそれでいいんだと思う。今、君が元気で健やかに成長できているなら、あの時した苦労も報われたってことにできるんだから。

だから、この通院が終わったら、今日も どこかで美味しい物を食べて、遊びに行こうよ。私の可愛い小さめの長女さん。

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