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アンダルシアの日々(スペイン)

一九九七年十月十二日、ポルトガルの南端の町サンアントニオから、川向こうのスペインの町アヤモンテへ渡る。

 空はポスターカラーの原色のブルーのような青空で、一点の陰りもない。

 とても十月の太陽とは思えない真夏の太陽に茹であげられて、頭の中がぼーっとしてくる。数日前までいたリスボンとはもう完全に別世界だ。

 サンアントニオの町は、日曜日だからなのか、それとも何かの祭の最中なのかは分からないが、町全体に市が立ってにぎわっている。買物客の半分くらいは、スペイン側から来ている人々のようだ。

 なぜか老人と子供が目立つ。子供の手を引いているのはばあさんばかりで、母親らしい年代の女性が見当たらないのが、不思議といえば不思議だ。

 ジプシーらしい少年が、町角に足を投げ出してアコーディオンを弾いている。その前には小さな空き缶をくわえた子犬が一匹、ちょこんとすわりこんでいる。空き缶の中をのぞくと、数枚のコインが入っていた。

 ジプシーの子供は、一見、日本人の子供に似ている。ただ、目つきが明らかにちがう。子供とは思えないような目をした子供が多いのは、生活環境のせいだろうか。

 五十エスクードコインを一枚、空き缶の中に落として、またしばらく歩いてゆくと、同じような子犬を前にすわらせた少年たちが、次々に二人、三人とあらわれた。どうやらひとつのスタイルとして、定着しているらしい。

 私は二人目まで五十エスクードコインを落として、あとは速足で通り過ぎた。

 グアディアナ川を渡る船に乗る。船は大きくはないが、いちおうクルマも何台か積んである。そう離れていない場所に、橋もかかっているのだが。

 水上に出ると、風が強い。季節風だろうか。しかし、この風のおかげで、少しは暑さも凌げる。

 十五分ほどの船旅を終えて、対岸に上陸すると、そこはもうスペイン、アヤモンテの町だ。

 ポルトガルを北から南へ縦断して、またスペインへと戻ってきた。季節は夏から秋へと移ったわけだが、実感としては、時計の針は逆に回転したようだ。

 スペインにはいろいろな顔がある。自然も住んでいる人々も多彩だ。世界地図で見ると、イベリア半島にはスペインとポルトガルのふたつの国しかないが、実際には四つか五つの国が混在していると考えたほうが正解かもしれない。

 とりあえず余ってしまったエスクードをペセタに両替する。今日は日曜日だが、船着場の近くの駄菓子屋のおばさんに頼むと、自分のガマグチを引っ張り出してきて両替してくれた。

 二五〇〇エスクードが二〇〇〇ペセタに変わる。これが相場かどうかはわからない。

「ハポネ?」

 と訊くから、そうだと答えると、赤錆びた顔をしわくちゃにして、笑った。

 国境や人種を超えて、おばさんはあくまでおばさんらしい。

 アヤモンテの町はシエスタの真最中らしく、対岸とはうってかわって静まりかえっていた。あるいは半分くらいの住人は、サンアントニオに出かけているのかもしれない。

 白壁のつづく町並みを縫って、小高い丘の上に出ると、闘牛場があった。こんな小さな町まで闘牛場があるとは意外だった。けれどもさすがに大きな闘牛場ではない。

 ぐるりとひとまわりしてみると、なるほどソンブラと表示された入口とソルと表示された入口がある。

 ソンブラは影または日陰を表し、ソルは太陽または日向を表す。当然、ソンブラ席の料金は高く、ソル席の料金は安いというわけだ。たしかにこれほどの強烈な陽射しの下なら、ソンブラがどれほど重要な意味を持つかよく分かる。ソルとソンブラ、光と影の持つ意味が、ここにきてようやく理解できたような気がする。

 それにしてもスペイン人というのは妙な人たちだ。午後の四時というのに、住宅街も繁華街も深夜のように静まりかえっている。どの家もきっちりブラインドが下ろしてあって、さながら町中喪に服しているようだ。彼らにとって、この時間帯はもうひとつの深夜なのだろう。

 今日中にセビリヤまで出ようと思っていたが、バスターミナルが見つからないので、アヤモンテに一泊することにする。

 市街地から少し外れた、その名もグアディアナというオスタルに泊まる。まだ新築のオスタルらしい。一四〇〇ペセタの部屋は、広くて清潔だった。ポルトガルの悲惨な宿ばかり体験してきた身には、涙が出るくらいうれしい。

 実際、ポルトガルの宿泊事情は最悪に近かった。料金的にはスペインとほとんど変わらないのに、ほとんどの安旅館が古くて不潔だった。コインブラという町では、夜中、南京虫に襲われて一睡もできなかった。いまだにその後遺症で、夜になると体中痒くて熟睡できないありさまだ。


 朝日のごとくさわやかにーそんなタイトルのジャズの曲があったが、アンダルシアの朝日はそんななまやさしいものじゃない。強烈な目を射るような朝日が窓から飛びこんできた。これはもうほとんど凶器に近い。十月も半ばの季節で、この強烈さなら、真夏の太陽はいったいどれくらい凄まじいものなのだろう。

 しかし、この太陽が、夕方にはすばらしいショウを演出する。

 この地方の夕暮れ時の美しさには、とにかく息を飲む。

 まず、地平線付近の空が、真っ青な色から濃い紫色に変わる。それから徐々にうす紫色に変化してゆき、それがだんだんとオレンジ色へとなるにつれて、空の上のほうへと一枚の大きなカーテンを引き上げるように上昇してゆく。と同時に、この地方独特の真っ白な低い町並みが、やはり紫色からオレンジ色へと染まるのだ。

 これはアヤモンテの人たちにとって、けっして一日の終わりの景色ではない。むしろもうひとつの一日のはじまりの景色なのだ。

 アヤモンテのバスターミナルは、まだ新築同然の新しい建物だった。この国の他の町のバスターミナルと同様、町外れの少し不便な場所にある。

 窓口で、セビリヤ行きのバスの時刻を訊くと、正午までないという。

 ただし、途中のウエルバという町までのバスなら、あと五分で出るから、そこからセビリヤ行きのバスに乗り継げばいい。

「あのバスだ! 急いで!」

 いかにも人の良さそうな若者は、自分が乗り遅れたら大変、とでもいわんばかりに急き立てた。

 ところが、ウエルバに着いて分かったことは、結局、セビリヤまで行くバスは、アヤモンテを正午に出て、ウエルバを経由するバスしかないという事実だった。

 なんということはない、最初からアヤモンテ正午発のセビリヤ行きに乗ればよかったのだ。

 こういうことは、スペインを旅行している間、何度となくあった。べつに窓口の人間が不親切なわけじゃない。彼らは彼らなりに一生懸命なのだ(たぶん)。ただ、その一生懸命さが、残念ながら、しばしば痒いところに手が届かない。

 セビリヤに着いたのは、午後二時過ぎだった。

 セビリヤはアンダルシア地方きっての大都会だ。巨大な闘牛場があり、スペイン最大のカテドラルがあり、とてつもなく広いスペイン広場がある。

 町の中央をグアダルキビール川が貫いている。この一本の川が、大都会セビリヤをコンパクトに引き締めている。実際、この川がなかったら、セビリヤという町のイメージは、タガの外れた樽のようなものになってしまっただろう。

 アヤモンテからのバスは、やはり町の中心部からはだいぶ離れた場所にあるバスターミナルに着いた。

 セビリヤには大きなバスターミナルがふたつある。以前、日本人の旅行者仲間から、セビリヤのバスターミナルはスペイン広場のすぐ近くにあるので分かりやすい、とだけ聞かされて、それがふたつのうちのひとつだと知らなかった私は、到着早々、方向感覚を喪失してしまった。

 スペイン広場を町歩きの基点にしようと考えていたのに、半日歩いても、そのスペイン広場にたどり着けない。それもそのはずで、最初からまったく見当違いの場所をぐるぐるとまわっていたわけだ。基点以前の基点をまちがえているのだから、救いようがない。

 歩き疲れて、またもとのバスターミナルの近くに戻ってきた。道を訊くたびに、タバコばかりたかられて、結局、元の木阿弥だ。私は思うのだが、スペイン人とイタリア人には道を訊くべきではない。

 それにしても、スペイン人というのは、どうしてこんなにタバコをたかるのが好きなのだろう。ひどいのになると、一度に二本も箱から抜いてゆく。

 残り少なくなったマルボロの一本に火を点けて、さて、どうしようかと考えていると、街路樹にもたれかかってじっとこっちを見ている浮浪者然とした男と目が合った。

 ヤバイ! また、タバコをたかられると思って、それとなく視線を逸らし、反対側の建物に目をやると、オスタルの看板があった。できることなら、有名なサンタクルス街の近くにでも宿を取りたかったが、今日のところはたどり着けそうにない。それにほどほどにボロイ建物で、悪くなさそうだ。

 入っていってみたが、フロントには誰もいない。と思ったら、樹にもたれていた浮浪者が、すたすたと後から入ってきて「オーラ!」といった。

 彼は浮浪者ではなく、オスタルの主人だったのだ。

 値段を訊くと、二〇〇〇ペセタという。まけてくれ、といっても、首を振るばかり。部屋を見せてもらうと、玄関にくらべてずいぶんきれいなので驚いた。なるほど、これなら二〇〇〇ペセタの価値はある、と考えて、泊まることにした。

 翌日、町に出てみて、分かったことだが、そのオスタルは市中心部からかなり外れた場所にあった。スペイン広場までは、川沿いに歩いて、一時間ほどもかかる。

 アヤモンテも風が強かったが、セビリヤもすごい風だ。巨大な扇の形をしたスペイン広場のまんなかでは、風がごうごうと渦を巻いて、噴水の水が螺旋状の曲線を描いていた。

 ぽつりぽつりと影絵のような人たちが散歩している。有名な広場なのだろうが、この風のせいか、観光客らしいすがたはあまりなかった。

 スペイン広場からサンタクルス街の方角へ歩いていると、道端のカフェで、日本人男性らしい人のすがたが目についた。声をかけてみると、やはり日本の人だった。

 けっこう旅慣れたふんいきの三十歳くらいの人で、もう一ヶ月くらいスペインを旅行しているのだという。グラナダ、コルドバとまわってきて、今日、セビリヤに着いた。アラブ建築の勉強をしているので、スペイン南部の町は興味が尽きない、といって、ひとくさりアラブ建築の講義をしてくれたが、もちろん理解できるわけもない。

 それよりも驚いたのは、彼の荷物の少なさだった。ナップサックのような袋をひとつぶら下げているだけなのだ。

 どこかに荷物を預けているのだろう、と訊くと、これだけだ、という。だいたい日本人の長期旅行者には、荷物の少ない人が多いが、ここまで少ない人には初めて会った。なるほど、たったこれだけの荷物でも旅はできるのだと、感心した。

 彼といっしょのテーブルで、パエーリャを食べた。

 スペインで初めて食べたパエーリャだったが、正直、おいしくなかった。ぱさぱさしているだけで、味が舌に残らないのだ。

 誰に訊いても、日本人だと、パエーリャが美味いといった人はいない。どうしてもチャーハンやピラフをイメージして食べてしまうので、味がからまわりしてしまうのかもしれない。ただ、パエーリャは、本来、スペインの家庭料理だ。旅行者がレストランで食べるパエーリャとスペイン人が家庭で食べるパエーリャはちがう。

 彼とは、その後、ヒラルダの塔の前でもう一度出くわした。

 ヒラルダの塔は、セビリヤの象徴ともいうべきアラブ様式の高層建築だ。高さ百メートル近くもあるその塔は、もともとはイスラム寺院のミナレットとして建造されたものだ。現在では、併設されたカテドラルの鐘楼としての役割を担っている。

 迷路のようなサンタクルス街を足の向くままに歩いていると、なぜか最後には必ずこの塔の前の広場に出る。

 昼見ると、なんということもないただやたら高いだけの建物だが、夜、月明かりの下で見るヒラルダの塔は、ぞっとするくらい美しい。しかし、その美しさはどこか冷酷で、非人間的だ。

 残酷な人間は美しい手をしているというが、この塔を見ていると、昔々のアラブの王様の手を想像してしまう。荒くれ男のごつごつした手は、恐くない。けれど、美しい手をした人間は、恐い。

 手といえば、アンダルシア地方の町を歩くと、ドアの表に、小さな手の形をした装飾品がぶら下がっているのをしばしば見かける。

 おそらく女性の手の形をかたどったものだろう。どういうわけか左手首のものが多く、中指に大きな指輪をはめている。手のひらにはビー玉大の金属製の玉が、すっぽりと収まっている。サンタクルス街でも、いくつか見かけた。特別目をひくほどのものではないのだが、なんとなく気になる。

 あれはいったい何なのだろうか?

「ああ、あれならファティマの手というものですよ」

 と、アラブ建築勉強中の青年はいった。

 いうまでもなく、アンダルシア地方は、かつて一度はアラブ勢力に征服された土地だ。一四九二年、グラナダ王国の陥落によって、イベリア半島のレコンキスタは終了し、キリスト教の完全復権が達成されたが、いまだに影に日向にアラブ文化の影響が、この地方には根強いのだという。

 ファティマの手もそのひとつだ。どうやら一種の魔除けのようなものらしい。イブル・アイならぬイブル・ハンドといったしろものだろうか。

 この後、私はジブラルタル海峡を越えて、北アフリカへ渡ったのだが、たしかにかの地にもまったく同じ物が存在した。そしてギリシャのクレタ島でも、私はそれを見た。おそらく南ヨーロッパから北アフリカにかけての広い範囲に、この小さな女性の手は、静かな繁殖をつづけているのだろう。


 セビリヤには二日しかいなかったが、昼夜の寒暖の差がはげしいのにはまいった。

 昼は、半袖、短パンでも暑いくらいなのに、日没と同時にぐんと気温が下がる。その気温の下がり方は、徐々にというのではなくて、かくんと直線的に下がる。オスタルの部屋では、寒さで眠れなかった。

 おかげで少し体調を崩した私は、暖かさを求めて、早めに南へ向かうことにした。

 スペイン広場近くのバスターミナルから、カディス行きのバスに乗った。

 バスはがらがら。セビリヤの市街地を出たとたん、何もない空間が広がる。陽射しはさらに強烈で、なぜこんな土地で、夜寒さにふるえなければならないのか、こっけいですらある。

 猛烈なスピードで、バスは荒野を一直線に南下し、一時間たらずでカディス到着。

 カディスは大西洋に瘤状に突き出た小さな半島上に造られた港湾都市だ。もっとも都市といえるほど大きな町ではない。一キロ平方ほどの市街地に、新旧の建物がみっしりと密集し、数万人の人々がひしめいている。

 市街地全体が迷路のような構造になっていて、道という道は狭く、暗く、アンダルシアの強烈な陽射しも、この迷路の底までは届かない。

 では、この迷宮のような町に暮らす人々がどういう人々であるかというと、なぜかみんな底抜けに陽気な人々なのだ。

 これが不思議の第一。

 カディスではあまり遠出をすることなく、旅館の近くにあるバルで、朝昼晩の食事をすべてすませていたが、そのたびにだれかれとなく話しがはずんで、夜などはどんちゃん騒ぎになった。

 私はどちらかというと、あまり社交的な性格ではない。だからむしろひとり静かに食事したいと思っているのだが、いつのまにか若者がギターをかき鳴らし、女の子が歌いだし、おやじが踊りはじめる。そうなるともう手がつけられない。

「セルベッサ! セルベッサ!」

 といって、ビールを勧めてくれるのは、正直いって、ありがた迷惑で、実は私は缶ビール一本で意識朦朧としてしまうくらい、アルコールに弱い。

 しかし、バルにたむろするおやじたちは、よもやセルベッサを勧められて困る人間がいるとは、針の先ほども考えない。

 後になって分かったことだが、夜、カディスのバルに集まっていた若者たちは、ナビダ(つまりクリスマスソング)の練習をしていたものらしい。だいたいスペインのバルで、夜、女性を見かけることはあまりない。そこは日本の赤ちょうちんと同様、いや、それ以上に、基本的に女人禁制のおやじたちの聖地なのだ。

 付け加えて、もうひとつふたつ、スペインのバルについて私見を陳べておく。

 私は断言したいのだが、スペインでいちばんの働き者は、バルのボーイたちだ。目が回るほど忙しい、というのは、まさしく彼らのためにあるような言葉だ。見ていると、どこでもぎりぎりの人数で仕事をこなしているように見える。

 小さなバルだと(たいていのバルは小さいのだが)だいたいひとりかふたりで、すべての仕事をこなしている。しかも客との適度な会話を忘れずに、いつでもじつに気持ち良い笑顔を見せてくれる。

 もうひとつ。こちらはあまり感心したことではない。

 バルの客に限ったことではないかもしれないが、だいたいスペイン人は灰皿というものを使いたがらない。

 灰皿がないわけではない。

 バルにも灰皿はある。少なくとも、それらしきものはある。しかし、それが灰皿として機能している現場に立会うことは、きわめて稀だ。

 では、スペイン人はあまりタバコを喫わないのかというと、そんなことはない。彼らは男も女も総じてタバコ好きだ。この傾向は南へ下れば下るほど強くなるように思われる。しかし、その残骸がバルの灰皿を飾ることはあまりない。

 灰皿の上に灰を積もらせたり、その上で吸殻をもみ消したりすることは、彼らの美意識に反するのかもしれない。その結果として、どこへいってもバルの床は吸殻と灰の山だ。

 バルのボーイたちも、それで当然だと思っている。一日に何度か、ボーイたちはこの吸殻をほうきで掃いて、ゴミ箱へ捨てる。ときには、店の外に掃き出す。灰皿を洗う必要もないし、誰も文句をいわない。何の支障があるだろう?

 ところが、確かマドリッドのバルでのことだったと思うが、一度、ツーリストらしいイギリス人が突然怒りだしたことがある。曰く、なんでおまえたちは目の前に灰皿があるのに使わないんだ! おまえたちスペイン人には公徳心というものがないのか! とまでいったかどうかは分からないが、その初老のイギリス人は、けっこう本気で怒っていた。

 私はつくづく思うのだが、イギリス人とスペイン人の美意識は、あと千年くらいは一致しそうにない。

 カディスの不思議の第二。

 それはなぜ月があんなにも大きくあざやかなのかということだ。

 カディスの町は、迷路状の市街地を半島の中央にして、まわりはぐるりと半円形の海岸線に囲まれている。ただし、海岸線といっても、砂浜はない。カディスはあくまでも人工的に造りあげられた計画都市だ。ある意味でベネチアに似ている。

 その半円形の海岸線の突端部に、さらに海に向かって剣のように突出した陸地があり、そこを歩いてゆくと、なにやら軍関係の要塞みたいな施設にたどり着く。

 風はやはりカディスでも強く、夜はやはり寒い。アンダルシアにしても、もう夏は終わりなのだろうか?

 ふりかえると、カディスの町を配下に従えるかのように、とてつもなく巨大な月がすがたをあらわしつつあった。満月だ。

 月は昇るにつれて、冷たい銀色の光を放ちはじめた。

 月の光は不思議だ。それは太陽の光とまったく逆の作用を世界に及ぼす。太陽の光は、生者に活力を与え、死者を腐敗させるが、月の光は、生者を生きながら死者に変え、死者を墓場からよみがえらせる。

 陽気な人々が住むカディスの町もまた、月の光の下では死者の世界に見えた。かつてのスペイン無敵艦隊も、この月の光を浴びて出撃していったのだろうか。


 十月十七日、正午のバスでアルヘシラスへ向かう。カディスにもまた、二日しかいなかった。アンダルシアを駆け足で通り過ぎている。

 この地方の人はみんな気さくで良い人たちなのだが、私のような旅行者にとっては、逆にそれが腰を落ち着け難くしている要因のひとつになっているようだ。

 十時頃、宿を出て、例のバルに寄った。相変わらず、常連のじいさん連中がたむろしている。私が大きなリュックサックをぶら下げているので「なんだ、もうどこか行ってしまうのか」というようなことをいう。

「アルヘシラスへ行くんだ。そこから船でモロッコのタンジェへ渡る」

 と、身振り手振りを交えていうと、みんな急にがやがやとした。

「タンジェだって! ひとりで? やめろ、やめろ!」

 朝っぱらからすでにできあがったじいさんが、大きな声でいった。

「タンジェ、アブナーイ」

 チョビヒゲはやしたマスターも、真剣な口調でいった。

 タンジェについての悪い噂は、耳にタコができるくらい聞かされていた。実際、治安はあまり良くないらしい。いや、良くないどころか、日々、悪化の一途をたどりつつあるというのが、大方の意見だ。

 観光国モロッコのヨーロッパからの玄関口にあるタンジェの町は、今や怪しげなニセガイドたちの巣窟と化していて、そこでは誰もがツーリストから金をむしり取ることしか考えていない、とスペイン人はいう。

 実際、マドリッドで会った香港の女性ふたりは、アフリカ大陸に上陸したはいいが、群がり寄ってくる自称ガイドたちと格闘するのに疲れ果て、タンジェから先に進むことなく、そのままスペインへと引き返してしまったと嘆いていた。

 バルの男たちの親身な助言はうれしかったが、私はタンジェをあきらめるつもりはなかった。

 私は少年時代からサン・テグジュペリの小説が大好きだった。そんな私にとって、モロッコという国はあこがれの国のひとつだった。今回の旅のコースに、フランス~スペイン~モロッコというコースを組み込んだのも、サン・テグジュペリがかつて空から見た世界を、自分の足で歩いてみたかったからだ。

 それにタンジェ(タンジール)とは、なんとエキゾチックな町の名前だろうか!

 カディスからアルヘシラスへの旅は、ヨーロッパ大陸最南端の海岸線をたどる旅だ。

 途中、タリファという小さな港町があり、ここがヨーロッパ最南端の町。アフリカ大陸まで、わずか十三キロだという。バスの窓からも、海の向こうにモロッコの陸地が手に取るように見える。

 周囲の風景もいよいよ荒涼としてきた。

 ごつごつした岩山がつづき、樹木がほとんど見当たらない。異様に低く、地を這うような雲が、すごいスピードでバスを追い抜いてゆく。まるで高山を行くかのような錯覚にとらわれる。

 風力発電の風車の群が、岩山の尾根伝いに並んでいる。百? 二百? いや、もう一桁多いかもしれない。いったい全部でいくつあるのだろう。行けども行けども、また新たな風車の群れがあらわれる。不毛の土地に繁殖した白い植物群のようだ。

 カディスから二時間、国境の町、アルヘシラスに着いた。

 バスを降りるときになって、初めて気がついたのだが、同じバスに日本人の女の子がひとり乗り合わせていた。全部で十人も乗客はいなかったのに、アルヘシラスに着くまで気づかなかったのは不思議だ。彼女のほうも、知らなかったらしい。

「どこから乗ったの?」と訊くと「カディスから」という。

 ますます不思議だ。

 私同様、アルヘシラスからタンジェへ渡るつもりだ、というから、ふたりとも目前のアフリカ大陸のことばかり考えて、他のことに気が回らなかったのかもしれない。

 言葉がどうもなつかしいと思ったら、北九州の人だった。同郷人というわけだ。

 今年六月に仕事を辞めて、スペインに語学研修に来ているのだという。

 私は内心、またか、と思った。

 語学研修の名目でスペインに長期滞在している日本人女性は多い。マドリッドあたりに行くと、一日にひとりはこの手の人間に出くわす。

 不思議と男で、スペインに語学研修に来ている日本人というのはいない。闘牛士の修行をしているという青年をひとりテレビで見たが、語学研修といえば、なぜか女ばかりだ。

 なぜ、スペインなのか? なぜ、女性なのか? 彼女にいわせると

「スペイン語は英語に次ぐワールドランゲージだから」

 だという。

「それに、まだまだスペインは物価が安いでしょう。気候も、フランスやイギリスにくらべると過ごしやすいし、人情味もあるしね。でも、マドリッドは良くないわね。マドリの人は冷たいわ。ホームステイするにしても、マドリの家庭は金儲け第一でやってるから、最悪。住むなら、マラガ」

 確かに、マドリッドあたりとアンダルシアでは、人あたりがぜんぜんちがう。

「それで、スペイン語は上達しました?」

「うーん。どうかしら。とにかく、はじめは、ウノ、ドス、トレスも知らずに飛び込んだから、先生から、きみは度胸だけはあるっていわれましたけど」

「これからモロッコに行くんだ?」

「そう。明日ね。ほんとはひとりで行きたかったんだけど、先生からそれだけは絶対やめろっていわれて。結局、ツアーを申し込んだから、明日の朝、アルヘシラスのフェリー乗場に集合なのよ。高くつきましたけどね」

 その夜は、お互いのモロッコの旅の無事を祈って、港の近くのレストランで祝宴をはった。といっても、一皿九〇〇ペセタのチキンを食べただけだが。ちなみに、スペインではチキンのことをポヨ、またはポジョという。アンダルシアではよくポヨを食べたが、どこで食べたポヨも変わらずおいしかった。

 アルヘシラスはやはり国境の町だ。国境の町独特の雑然とした雰囲気があり、怪しげな人々がうろついている。夜、波止場を歩いていると、そうした男たちがひとりふたりと近づいてくる。

 ハシシ売りだ。

 ヨーロッパでハシシ売りに出くわしたのは、これが初めてだった。

 モロッコ人だろうか?

 スペイン人とモロッコ人は見分けがつかない。スペイン人にもモロッコ人以上に色の黒い人がいるし、モロッコ人にもスペイン人以上に白色人種的な容貌をした人がいる。

「ハシシいるか?」

「いらない」

「良いハシシだ。あんたには特別安くしとくよ。どうだ、いるか?」

「いらない」

「なぜ、いらないんだ」

 この「なぜ、いらないんだ?」とか「なぜ、買わないんだ?」というのは、世界各国の物売りに共通の最後の殺し文句だ。

 これはこんなに安くて、良い品だ。そしておまえは十分お金を持っている。なのに、なぜ、おまえはこれを買わないのか? 一見、強引な三段論法だが、この論法に負けて買物をしてしまうツーリストは多い。

 アルヘシラスのハシシ売りはしつこかった。似たような顔が入れかわりたちかわりあらわれて、どこまでも着いてくる。しかたなく、マルボロの箱を差し出すと、ひとりが一本づつ抜いていって、やっと解放された。モロッコ上陸にあたって洗礼を受けたようなものだ。

 その夜は久しぶりに熟睡した。

 ポルトガルの宿で南京虫の襲撃を受けて以来、こんなにぐっすり眠れたのははじめてだった。サン・テグジュペリが飛んだアフリカ大陸は、すでに私の目の前にあった。

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