絶望のカクテル。


生とは無意味だ。
少なくとも彼にとってはそうだったから、人を沢山傷つけてきた。
初めて人を生き地獄に送ったのはいつだったか…?今宵はどうも感傷が過ぎる…こんな日にはどうしようもなく死の誘惑に誘われてしまう。

このどうしようもない絶望感、闇が自分の背中にヒタリヒタリと足音を立てて近寄って来る。

私の全てはどうしようもないことばかりだ。

ヒタリヒタリヒタリ

嗚呼、絶望の音がする。
捕まりたいとは思わないがさりとて抗う気もない。
ただ己の絶望にどうしょうもなく死にたくなる…それだけだ。

嗚呼、死にたい、死んでしまいたい。

今こうして生きていることが我慢できない、安穏と意地汚く息をしている事さえ嫌悪する。
生に対して私は自分を嫌悪し、そして抑制できない焦燥感に支配される。

絶望に支配される。

これに囚われるくらいなら…消えてしまいたい。

数多の人間を底無しの地獄へ送ったのは、自分だ…どうせ行先は同じ地獄なのだろう。

それならば許されるのではないか?自己中心的思考であることは理解しているが、どうせ平穏に人生を終えるつもりも資格もない身だ。

私には修羅の道しか遺されていないのだから。

幾つもの薬箱と酒瓶が乱雑に置かれた己の部屋を見渡す。

アルコール度数の強い無色の洋酒が入ったボトルを手に取り栓を開けると躊躇いなく一気に煽る。

アルコールで喉の粘膜が爛れる様に熱い。

何本かの酒を、睡眠薬をつまみに飲み干す。

そして丁寧に研いだ、三日月みたいなナイフで自分の腕を切る。

もう幾度も傷ついた手首も腕も多少の力では血が出なくなっている。

人間は簡単に死んでしまうのに自分を殺すのは難しい、最も他人でも自分を殺せる人間は限られているだろう。

深く切った腕の傷から、時間遅れで血が噴き出る。

でなければ、もう彼はこの世には居ない筈だ…報復に来た奴らは全て返り討ちにしていた。

無意味だ…孤独だ…なんて情けない人生なのだろう。

手に取ったロープを鴨居に吊るす。

友の一人もいない人生だった、嗚呼なんて孤独だったのか…自分は寂しかったのだと気が付いてももう遅い。

ロープの輪の中に己の頭を入れるとようやく睡魔に襲われる…。

嗚呼、私は自由だ…。

安堵と共に意識は途切れてしまった。


 太陽の眩しさで覚醒すると、頭痛と耳鳴りがして不快感と共にまた死ねなかったと渇いた笑いを漏らす。

お釈迦様か閻魔様かは知らないが、自分はあの世にも嫌われてしまっている。

千切れたロープを首に掛けたまま。

彼は便所に駆け込んだ。

胃で消化できなかった薬と酒を吐き出した。

何度も何度も吐いては水を飲んで、指を喉に引っ掛けて身体の中に残っている物を全て吐いてしまう。

もう忘れてしまう位、日常茶飯事になった行為だが不快感も頭痛も耳鳴りも慣れない。

身体の傷は麻痺してしまうのにと考えて卑屈に笑う。

汚れた身体を洗い流す為に風呂場に向かうと、鏡には醜い少年が写っている。

自分の体液に汚れた顔と、無数の傷と血で染まった身体…。

貧相で醜くて汚い、彼の身体。

鏡から逃げる様に眼を逸らすと、冷たい冷水で身体を洗い流す。

冷水では穢れた罪深い魂も身体も洗い流せる筈は無い。

心は常に悲鳴を上げて血が流れているのに、誰もそれを知らないし知る必要は無いのだろう。

シャワーを浴びてタオルで身体を拭くと、新しい傷口から赤い血が滲んでタオルを汚す。

下着を履いて椅子に座ると無造作に、テーブルに置かれた消毒液の瓶を掴むと蓋を開けて傷口に振りかける。

真新しい包帯を身体に巻いて、白いカッターシャツを羽織ると釦を止めて黒衣を身に纏うと気持ちを切り替えて黒いネクタイを結んだ。

残酷で酸化していく世界へ繋がる扉を開けると、自殺志願者から普段の悪党の顔になる。

ルパンという酒場を見つけたのは本当に偶然だった。

またあの広いだけの部屋に戻るのがどうにも辛くて、何処かに寄り道しようと考えた時に見つけた赤い看板につられて酒場の戸を開いたのだ。

何処にでもあるカウンター形式の酒場で、猫が彼を出迎えてくれた。

少しひび割れて乾燥した心が和らいだ気がすると、カウンターの奥の年老いたバーテンダーにカクテルを注文したのは気まぐれだ。

「マスター、絶望の味がするカクテルを頼めるかな?」

そんな彼の注文を聞いて、バーテンダーは鮮やかな手つきでスノースタイルのカクテルを作り上げて彼の前に置いた。
彼は好奇心と共に、そのカクテルを飲んで顔を顰めるが年老いたバーテンダーは澱みない口調で説明してくれる。

「ソルティードックに塩を一撮み入れています。お客様、人生とは塩辛いものですよ。」

彼はハっとしてバーテンダーを見上げるが、年若い客の視線に気を留める事は無く人生の先輩である年老いたバーテンダーはグラスを磨いていた。

「そうだね…。」

彼は嬉しそうに呟いて、塩辛いソルティードックをチビチビ舐める。

こんな夜も良いのかもしれないと、ぼんやり考えながら。

贅沢を言うとすれば、こんな夜を過ごせる友達が欲しいと…出来る事が無い望みが頭に過って溜息の代わりに絶望の味がするカクテルを喉に流し込んだ。

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