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深欲に通じる愚直

コラム『あまのじゃく』1955/2/9 発行 
文化新聞  No. 1712


足許を見るのも程々に‼

    主幹 吉 田 金 八 

 飯能市の日セ半金回収問題も、市議会はそんな表沙汰にせず話し合いで解決をと終始弱腰だったが、町田市長は財政繰り越しの大役柄、どうでもこの半金を相当額は活かさなければ如何とも市は立っていけないと、調停前に地元の市議や区長等が連名で、まぁまぁと割って入ったのを、5割の線はどうにも引けないと態度を変えなかった。
 市議の中には調停は法の解決に過ぎず良法とは言えない、協定前の解決こそ政治性だなど、市長にあたかも政治力がないかの如き陰口を叩く者さえあった位である。
 ところが、調停の結果は市の言い分を妥当と認めて。 5割、5割という折半案を採用、勧告した。
 地主の中には『こんな問題でいつまでもグズグズしているのはたまらない。早く何とかしたい』という者も居なくはなかったであろうが、農村は他人に気兼ねをすることが多いから、先走って解決して仲間から裏切り者扱いにされることを恐れて、歩調を合わせた者が多かった訳であろう。
 そうした人たちは、裁判所で勧告されたから仕方がない、と言う事を口実に応諾するキッカケをつかんだ訳である。
 まだまだ第1回の調停で、関係人員も少数だから一応の着地を見たが、今後もこの伝で行くかどうかは判らない。全体を見ると、愚直である反面欲の深いこと限りなく、あまり金の卵を得るために鳩の腹を割く如く、イソップにでも出てくる様な面が強いという事があり、不透明である。
 戦争中米を買う都会の人達が体験済みのことだが、『米を売ってくれ』と言っても、売りたいくせして勿体ぶる。一升200円なら上等なのに、口先は体裁を作って『 金などどうでも良いですよ』などと言いながら、200円の他に手拭の1本、油の一合もお土産を貰いたい腹である。
 商人なら『いくらでなければ売れない』とハッキリ激しい口を利いても、その値段さえ出せば嫌も応もない。農民は100円だと思っていたものを、先方が150円に値をつければ200円にも売りたくなる。際限なしの深欲な点が多いと言う人がある。
 これは確かに一面の真理を伝えるものである。付合う世間が狭いためで、いくらで売っても売り負けたような感じを持つのかも知れない。
 さらにまた農地を売るような場合、一生に幾度も出っくわす事ではなし、売った金でまた買い、また売るという品物でもないだけに、考えれば無理からの点もあるが、深欲という事がいつの場合でも彼らの人生を失敗に導きやすい。
 例えば、この頃ラジオでやっている、一つ歌えば500円、2つ歌えば1,000円、3つ歌うとと2000円と倍々になる懸賞金、もうこの辺でやめたら良いのにと聞いている方が心配しているのに『もう一つ』と打って出て、全部ダメになってしまうのがあるが、今度の日セ問題などもこれと符合する点が多分に感じられる。
 どうせ半々で解決するなら、今までにとっくに出ていた線なので、今更に調停だ、裁判だと手数をかける必要はなかった筈だが、最後には金筋が出なければ応じないのが、農村人と都会人とを問わず染み込んだ封建制である。
 『皆さんの自由な意志で、民主主義的に』などと言っていたのでは、いつになっても解決しない。官憲が乗り出すとドンピシャリである。
 それでいて、後になって文句たらたら、元加治の分村の動機が手近な一例で、『軍部の圧力で合併させられた』と後になって言う。合併したくなかったら軍部の圧力でも何でも反対したら良かったものをと言いたい。戦時中、国家の統制力が強かったとはいえ、町村の合併に反対して警察に引っ張られたものは一人もいなかったはずである。
 酪農が良いとなると、猫も杓子も乳牛、乳牛。日掛貯金には騙されて、せっかくの貯金を貢ぎ込む。その乳価が四円になり、三円にもなりかねない。 金融会社はぶっちゃけて元も子もなくしてしまう。働くばかり、貯めるばかりが能ではない。もうちょっと頭を練り直さなければ日本の農民も浮かばれまい。このことは農民にのみ限らないが、政治にばかりおんぶしても無理ではないか。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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