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《オートバイ》西日本一周の旅(8)

コラム『あまのじゃく』1953/5/19 発行 
文化新聞  No. 714


『山が高うて‥』程でもない山中温泉

永平寺の雄壮に一驚する

    主幹 吉 田 金 八

 前夜むらっ気を起こした粟津温泉の女中さんも、起き抜けの容姿にはいささかゲンナリで「芸者は時間構わず二千円、女中もこの家に十人ほど居りまんが、週一回検査がありまんね、安全だす。」と言う次第。女中さんは芸者の半分で千円位かねと聞いてみたら、簡単にうなずいた。案外もっと安いのかもしれない。
 私の側車付オートバイは宿の若主人の配慮で家の前の車庫を借りて入れておいたので、出発の準備は割に手早くいって、9時半ごろ宿を出る。
 来たついでに有名な山代、山中温泉を見ない事には話にならぬとあって、いずれも電鉄で二、三十分の地点なので、この二温泉を廻る。山中温泉は粟津と同様な平坦地の、周囲の風景はさして美しいという地ではないが、古めかしい屋形作りの、玄関のある立派な旅館がたくさんあり、落ち着いた湯場で、粟津よりも数等格が上かと思われた。
 宿の女中達が付近の小川に前夜の客の汚した敷布や浴衣を選択に屯して、ガヤガヤ、ワヤワヤやっていた。ここは小休止で直ちに山中温泉に向かう。 道は良好、田舎の沿道に機械工場の多いのが目立つ。『山が高うて山中見えぬ』と歌われた山中温泉も、低い丘陵をいくつも越えはするものの、昔でもそんなに山坂があったとは思えぬ地点で、町は温泉で潤っているらしく、家並も立派で明るく静かな温泉町である。
 中央に町営の浴場があって大人5円、子供3円で自由に入浴させる。まだ粟津で入ってきたばかりなのに、記者は話の種だと思って入湯してみた。
 ローマ風とでもいうのか石を張り詰めた浴室は、天井が教会の様な造りになっており、湯船も十メートルに三メート位の大きなもので、別に飾りこそないが、清潔な浴室である。
 町営だけに、脱衣所には山中文化会の講演ポスターから納税通知、さては町民の死亡、お通夜の報知まで掲示してあって、町民の連絡用の感がある。
 山中温泉を立って大聖寺に向かう途中にある村役場の前でガソリン・エンコしてしまった。
 国道をそれて、あの道この道と不案内の道を迷ったので、意外にガソリンを使ったらしい。農協に三輪車位あるだろうからと、ガソリンを分けてくれと申し入れたが三輪車は無いとの事。今度は役場に行って消防車用のガソリンをねだる。
 最初は消防車同士なら借りたり貸したりするが、別の用途では譲れないと言うのを、20分も粘ってとうとう二升程譲ってもらった。
 それから大聖寺に出て14リッター補給、一路国道を福井に向かって走る。
 福井市外の九頭竜川の鉄橋を渡ったところから左折して、先だって旦那寺の能仁寺で、本山何百年忌かの講で本山参りを誘われ折は、新聞社の事情で抜けられないため、参加できなかった永平寺詣でをこの機会に果たすことにする。
 大聖寺より往復八里、ちょうど飯能―名栗間位の山峡に分け入ったところで、さすが曹洞宗の総本山永平寺は立派なものであった。
 150畳もある信徒接待所、エレベーターもあり、大庫裡、八堂伽藍の壮麗・雄大さには舌を巻いた。丁度日暮れも近く、途中遊覧バス七、八台とすれ違った。小学生の団体が汚した跡を一山の坊さんが掃除をしていたが、何とか堂と言う禅問答をやるお堂等、床の石畳までテカテカに磨き込まれてれていた。
 永平寺の山門前をスタートしようとしたらキックの鉄棒が折れてしまい、それでも山門前の坂道で押し出してエンジンをかけて、途中岩松町まで来て酸素屋を見つけて修理させる。
 かくして、13日夜は岩松町の九頭竜川堤防上で露営の夢を結んだが、夜半に驟雨があって、夜具が三分の一位濡れてしまった。
 女房殿は、永平寺の参道で2度出合った青大将に怯えて、キャンプを嫌がり始め『もうそろそろ帰りに向かったら』と、気の弱いことを言い出してきた。


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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