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文化国家と野蛮国民

『あまのじゃく』1950/2/24・3/12 発行 
文化新聞4,6号掲載


 真の意味の文化社会とは

     社長 吉 田 金 八         

 支那事変に従軍し蒋介石の実行した新生活運動を見聞して、彼の民衆運動の賢明な行き方に感心した。現在中共に追われて台湾に逃避してはいるが、孫文以来の支那革命を完成し、十年間困難な日支事変を曲がりなりにも勝ち抜いた彼こそは、偉大な民衆の指導者であり世界の大政治家であると思う。
 大衆は難しい理論はわからない。理屈は大嫌いである。ホーロー洗面器は上下水の区別はない。蠅が食物に雲集することを不思議としなかった支那民衆を清潔な健康生活に導いた。真っ白いセト引きの器に汚水を盛れば汚さが目に付く道理である。
 木綿の藍衣は国民に簡素な自然美を教え服装費の重圧から解放した。
 翻って日本の現状は如何。文化国家を表看板にしておって、その実、これ程非文化国家は世界に類がないのではあるまいか。この国の国民はまだ金持ちが偉いという観念から抜けきれない。
 総理大臣はシロ足袋に葉巻をくゆらして国民の貧乏を関せず焉(いずくんぞ)である。政治に対する正しい批判を持たぬ大衆は苦しいのが当然である。この国の思想文化はヒロポン注射とアドルム常用の思想家、文芸家に依って代表されている蒼白き肺病文化である。頭ばかり発達した一部の学生、青年は、レーニンイズムの狂信者となり、無産革命の夢に沈溺する、体ばかり発達した民衆の大部分は戦争といえば戦争、相撲といえば相撲、競輪が流行すればこれに狂奔して流血の騒ぎを演じる。
 文化国家とは健康な国家と同義語である。政府が国民の掠奪者であったり、官吏が不正不義の巣窟の観ある現状は断じて文化国家とは言えない。文化国家を構成する国民は政治に対してもっと高い鑑識をもって国会議員の選出にあたるべきである。金権やその場限りの人気取り政策につられて出まかせの選挙権行使は国民生活を現在の絶望的状態に追い込むのは当然でありその責任は政府にあらずして国民にあることを反省すべきである。
 文化国家には無駄な役所や役人は不要である。日常坐臥なんでも役人の世話にならねば過ごせない現状は幼稚園の生徒か狂人病院の患者と何ら異ならない。国家は河川道路の修理と占領軍との連絡応接だけに専念しておれば十分であり、国民は所得の一割位の納税で間に合うことになり、殺人的税金から解放される。
 今こそ国民は奮起一番、戦争準備のために増大拡張された国家の権力組織を追放解散して、大正時代の財政に再組織すべきである。戦争中我々は手をもぎ、足を取られたが、今度は官庁の大量廃止を促進して、彼らの背徳陰謀の巣を破壊すべきである。
 敗戦によって日本の軍閥は追放された。だが、官僚は依然としてその地位を保っている。彼らは戦争中は軍部に、終戦後は統制経済に便乗してその立場の温存と、国民よりの搾取に飽くことを知らなかった。
 官僚の貪婪と杓子定規は最近の大蔵大臣の発言により馬脚を現した。官僚出身の大蔵大臣は税金が払えないで自殺するものが三人や五人出てもやむを得ないと放言した。不用意な談話のうちに彼らの冷酷無情な真意が表明されている。共産党や社会党の諸君は資本家のみを唯一の攻撃の目標としているが、敵が本能寺にあることを知らない。資本家も官僚を利用し共同することにより利益の壟断搾取にほくそえんでいる。官僚の本城をつぶすことは独占資本陣の一翼を撃破することである。
 文化国家の建設は国民が蛆虫の生活から絞り出した税金で役所や公園を立派にすることではなく、国民自体の生活を健康快適にならしむることである。敗戦の現在、外形の文化生活は求め得られぬが生活の内容だけでもより豊かに現在の虚無灰色の貧困から抜け出なければならない。


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】 

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