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雄大な景色

コラム『あまのじゃく』1952/2/8 発行 
文化新聞  No. 232


 海から見た別府湾、富士山、奥入瀬渓谷

   主幹 吉 田 金 八

 重箱の隅をほじるくるように小さな町や村の問題を毎日書いていると、バカに気持ちが小さくなって、こせこせして堪えられない。今日は少し方向を変えていろんな雄大な思い出を綴ってみよう。
    ◇  
 雄大な景色と言えば海から見た別府湾などは、私の狭い旅行経験では最大なものであろう。
 四国の八幡浜から何百トンかの内海行路の船に乗って別府に着いた時は、さほどにも思わなかったが、幾日かの滞在の後、また同じ航路の船に乗って岸壁を離れて行くほどに、展けた視野に映った温泉街の背後に、のびのびと緩やかなスロープを作ってなんという山か知らないが、緑の山影を別府湾に映じた景観は内地の景色では初めてのものであった。
 地獄谷とか、なんとかの池とか遊覧バスで見物した地点でもあろうか、山のそこかしこに白い湯けむりを上げて、この温泉がローカルなものでなく、熱海や箱根に比べられない大きな趣が感じられる。
    ◇
 僕が富士山に登ったのは確か支那事変の始まった頃だったろうか。死んだ親父が富士に登ったときに着ていった行者衣をステテコの上に着て、もう配給制度になって隣組だけに一足だけ割り当てられた地下足袋を履いた軽装で、ただ一人で富士登山を思い立った。
 あるいは普段、用のない地下足袋というものが抽選で当たったことが、戦争中の登山を思い立った動機だったかもしれない。
 富士吉田に着いたのはお昼頃だったろうか。馬返しまでバスで、それから馬の糞だらけの登山道を一人旅の気安さに、あせらず、あわてず気儘に登って行った。それでも抜いたり抜かれたりの、人間の歩速などと言うものは、そんなに遅速のないもので、いつしか五、六歳の女の子二、三人を引き具した三十五、六の夫婦者と道連れになってしまった。
 徴兵検査が丙種ではねられる位心臓の弱い僕が、楽々と頂上を極め得たのはこの足弱な女子ども連れの一行に同伴したためかもしれない。
 八合目で岩小屋に泊まったが、布団が汚いのと、多分ノミに責められた為か、12時ごろに飛び出して頂上に向かった。
 途中岩陰などには、うずくまって寒さを避けながら夜明けを待つ人々がたくさん見受けられた。
 とこうする内に、黎明が近づいて、頂上で御来光を拝むことが出来た。寒さにガタガタしながら矢張り富士山頂の日の出は雄大な感じを受けた。
 帰路はまた一人ぼっちになって道のない尾根を足に任せて降りていった。
 どうせどっかに出られると言うでたらめな気持ちだった。ハイマツや名の知れぬ植物の生えた地帯に着いて一休みした時、前夜来の寝不足でついうとうととしたと思ったら、ぐっすり寝込んでしまって、目を覚ました時には2時近くなっていた。ビックリして下山を急いだことなども、富士山を枕に大寝入りと言うところで、雄大な昼寝と言えない事は無い。
 この時は吉田口へ戻るつもりが、とうとう御殿場口に出てしまった。
 御殿場から富士五湖を巡りながら河口湖まで景色も良い。
 特に山中湖畔の外国風な景色は珍しかった。
   ◇ 
 オートバイで東北六県を廻った時のことである。
 十和田湖の良さは、山頂の湖水よりも湖口に至るまでの奥入瀬渓谷の湧水美にあるので、外国人などが特に称賛するとこであるが、単車でこの渓谷を分け登り、帰路夕食を「ツタの湯」と言う温泉で取り、そこを出たのが夜の8時ごろだったか、八甲田山の山腹を青森でまでの20キロ余りの行程、昼間は2回程バスが通ると言うのに、20キロの間に1軒の人家もなく、もちろん灯火も見えず、硫黄臭い温泉が路傍に湧き出ているのも、地獄の道中のように物すごく、宿の人の注意を聞けばよかったと臍を噛むことしきり。
 馬が自在に放牧してあって、道路に屯しており、オートバイの爆音にたまげて山中に逃げ走ったり、ウサギが目を赤く光らせながらつぐまっているのが、始めは何の目玉かと肝を冷やした。
 降り道に向いて靄と潮の匂いで海の遠くないことがわかったが、青森の市内の灯火をを望んだ時は、雄大さはうわの空で、やれやれ助かったと言う気持ちでいっぱいだった。


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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