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あまのじゃくの旅 (2)

コラム『あまのじゃく』1962/5/9 発行
文化新聞  No. 4151


自転車より安いバスで一巡

    主幹 吉 田 金 八

 小出駅前の旅館に泊まり、朝4時24分発の新潟行きに乗るつもりだったのが、目が覚めたのが丁度24分、列車の多少の遅れがあるから間に合うかもしれないと、女房の帯やコートを抱えて飛び出したが、やはり間に合わなかったのは残念だった。
 2時間ほど無駄をして、次の6時半発の長岡止まりに乗る。
 当初予定の4時発の列車だと新潟着が7時頃、いささか早すぎるが市内見物もゆっくりできて一日がフルに使えると思ったが、結局はこの列車になった。
 新潟着が9時40分頃、長岡あたりまでは冬が明けたばかりと言った寒々とした景色が窓の外に展開され、それでも農家は広い田んぼの耕地整理や灌漑の工事に勤しんでいる姿が見えた。
 ほとんど稲作一本に頼るこの地方とすれば、田んぼの改良が最大の仕事と言ってよいだろうし、相当大規模な改良工事が行われている。
 県も国も米を安く買うためにはこうした指導も本気でやっているらしい。
 列車は長岡で打ち切られたので、後の新潟行きを待ち合わせる間にホームで朝食を済ませた。最近はテレビ、画報などの影響で女性の服装などは都会がハイカラ、田舎が野暮などという隔たりが少なくなって、どんな田舎でもハイカラな夫人はザラだが、それでも小千谷や長岡あたりは織物産地だったり、古い城下町であったりした関係から、なかなかオツな服装の夫人にぶつかる。特に中年の夫人の和装日はお天気も良く、連休に家族連れで新潟へ行く客が多かった。 両側の車窓にひらける風景は初めての女房には珍しかったに相違ない。
 国鉄の複線化や国道の改良工事も意外に進んでおり、自動車で何回か往復したことのある記者には、三条付近のややこしい道が思い出されて無関心では見過ごされなかった。
 車中の話を聞いていると女房たちが『新潟は20年ぶりです』とか、『 弥彦へ回りたい』とか、寒い閉じ込められた冬から解放されて待ち焦がれた遊山も、県内には大した遊び場所のない事情を物語っていた。
 新潟が近づくと駅のあたりに十個近いアドバルンが上がって県都に集まる近在の客を歓迎するかのようで、急に賑やかになった。
 駅に降りるとすぐ帰りの列車の混雑が心配されたので、夜行の寝台券を尋ねたが全部売り切れで、第一に座席の心配が頭をよぎる。
 駅前は新駅に変わった直後に来たが、あの時とは大変な様変わりで、広い空き地に保険会社や信託会社のビルがぎっしり建ち並び、東京の丸の内のような見事さ、これに裸婦像の噴水やチューリップの花壇、全国の大都市のうちでも道路の広いこと、美しいことは遜色のない方であろうと思われた。
 記者は数回来ているので見物の必要はないのだが、今度の旅行は女房に新潟を見せることに狙いがあったのだから、一巡バスで案内することにした。 
 新潟はバスが発達しており、新潟交通の独占で無数のバスが市内を縦横に走っている。しかも料金の安いこともおそらく日本一で、市内どこに乗っても全区10円の均一料金である。黙って10円玉を出せば用が足りるということは、バスの系統や停留所名を知らない遠来の客にとっては至極便利である。
 バスやトラックのほとんどが天然ガスを燃料にしているので、車体の下に大きなボンベが2本覗いている。その天然ガスが新潟から無尽蔵に出るのだから自動車は安く走れるわけだ。しかし、5キロも6キロもあるところを10円では安すぎるとバス会社が15円に値上げをしたがっている事は聞いたが、今度行ってみて依然10円であった。バスが安いからハイヤーや自家用車が少ないことも頷ける。
 市民は自転車に乗る代わりにバスに乗っているように見える。
 繁華街のゴーストップで、いつも2台くらい同じ方向のバスが連なる事が多い。
 『有名な万代橋の上に何時も何台自動車が走ってるだろうか』というクイズは、観光客にガイドが教える問いだが、『50台』がご名答で、参考に記者も数えたことがあるが大した違いはなかった。
 その50台のうちには新潟交通のバスが必ず数台入っている。そのくらいにバスが多く市民の足になっているようだ。
 まず『ぬったり』から山の下町の工業地帯、港湾地帯をバスで一巡する。足弱の女房を連れているので、歩く事は一切なしでバスの上からの見物だ。
 知ったか振りの記者がガイドなので、そばで聞いている運転手君は腹の中で笑っていたかも知れないが、それでも一応の概念はつかめる。
 山の下町から県庁前までの引き返しのバスに乗り換えて、駅の近くに戻り、万代橋を渡って市の中心街を通り、新潟日報社の前では『田舎にもこんな大きな新聞社があるのだよ』と4層の大社屋を自分の新聞社のように自慢し、今度は県庁前から競馬場行きのバスに乗り換えた。

新潟にも文化新聞の分身あり
 一家あげての努力振りに関心

 三、四つ目の停留所が白山浦駅前。この駅前といってもちょっと構内の外れたところに私が地所と機械を提供している十坪ほどの印刷所がある。
 駅の方から回って、その印刷所の中を覗いたら、男女3人の子供が日曜でも働いていた。新潟夕刊新聞印刷部と看板がかかっていた。
 そこから15メートルほど離れたところに本社があり、この経営者が、ちょっとしたことから知り合いになった私の知人である。
 二年ぶりで訪れた私たち夫婦は、そこで精一杯の歓待を受けた。
 用足しに出ていた奥さんを呼び戻し、食事の支度をするやら、印刷所にいる子どもたちも次々と私たちに挨拶に来た。
 家族5人と中年の職人、その他適当にアルバイトの職人を使っているわけだが、新聞の方は半年で休刊し、現在は町仕事の印刷屋を懸命にやってる近況が報告されされた。
 先方は私が地代や損料の請求に来たものと思ったらしいが、『私の新潟進出の橋頭保の積りなのだから、そんな事は心配しなくても良い。まあ、家族中で協力して成功してください』と激励した。
 私が気を良くしたのは、その22歳くらいの長男が製版カメラの中古をゲップで買って、多少の写真版、凸版は自作で始めたという事や、今年中学を出た娘が高校志願を定期制で我慢して、文選をやっている事、今年6年を出た女の子まで学校の合間に解版くらい手伝っている、一家をあげての協力ぶりであった。
 縁もゆかりもない遠方の人に地所を買ったり、機械をタダで貸している私を、家内は『よほどの物好き』と普段笑っていたが、現地へ行って新潟の新聞一家(目下のところ印刷一家)の 実情を見て、女房も相当感銘したらしかった。
 お酒も楽しくご馳走になり、ちょうどその当主の甥っ子が佐渡から持ってきたばかりの「新わかめ」を「帰ったらお茶を送る」とこちらから所望して土産も出来、夫婦に送られてバスに乗った私たち夫婦はすっかり満足であった。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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