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愚の骨頂米の統制

コラム『あまのじゃく』1954/11/8 発行 
文化新聞  No. 1333


コメ統制撤廃が米価を下げる‼ 

    主幹 吉 田 金 八 

 5日夜、東北本線の闇米取締りに際して、カツギ屋が集団で一車両を占領してドアを閉ざし、警官の臨検を拒み久喜あたりより上野まで頑張って対峙した。その間、時速40キロの列車から線路上に飛び降りる者が続出、数名は重傷を負って入院したと伝えられている。(読売)
 ヤミ米の値下がりでカツギ屋も回数と量を運ばねば食って行けず、1回の取締まりで半月の利益がフイになってしまうとすれば、『窮鼠反って猫を噛む』という例えの如く集団暴力で警官と対抗することにもなるのであろう。
 この事態を見るときに、いかに日本が野蛮国であり、官僚悪がまだ一掃されていない事は慨嘆に耐えない。
 本紙では昨年来呼び続けているが、いまだに米の統制を撤廃しようとせず、この醜悪な社会現象を繰り返している事は歯がゆい限りである。
 月に10日か15日、しかも到底一人前の人間が1日の量に足りない事が分かっておりながら、闇米を売買してはいけないという事の不合理は、どう考えても官僚の独善として腹が立ってならない。
 戦争中から現在に至るまで、日本人の全部はヤミ米で生き延びてきた訳である。
 尊法精神に忠実だったとしたら、とっくに土の 中に入っていたことであろう。これも戦争遂行とか国民の絶対量が足りないとするならば、已むを得ない時機でもあったろうが、現在の如く米は有り余っており、黄変米など食えない、外来の配給は取り手のない時代になってまで、まだ配給統制を持続するのは、全国3万の統制官吏と怠け百姓を温存する以外、何の意義もないではないか。
 東北でも信越でも米場所では米が唸っている。平作の半毛と誇張した大凶作の年でも決して米は足りなくはなかったのだ。米場所では公定とほとんど同様の値段で取引されていることを記者は連年見て来ている。
 それを統制があるために、数千、数万、全国ではおそらく数十万と推算される担ぎ屋によって、莫大な保険料の不経済を加算し、列車は混み、国民の能率を退化させながら闇米時代を繰り返して来た訳である。 政府も国民も愚劣千万と言わねばならない。およそ法律のない米の統制法規くらい、空文的で、いたずらに官憲が民衆の弱みに付け込んで吸血の材料とされたものはあるまい。
 もう、こんな問題の是非を論ずる事すら記者とすればバカバカしい気がするが、大東亜戦争の敗戦を予言した如くに、米の配給制がいかに国民を苦しめ不経済、非能率にしているかを、幾度でも国民が目が覚めるまで警鐘を打ち鳴らさねばならない。
 統制を外せば米価は絶対に下がること請け合いである。この米価の下がるというのは、生産者の受け取り価格が下がるという事でなしに、闇の利潤、 闇運送費(二俵の米を運ぶのに人間一人が列車で付いて行く不経済な人件費)が排除されるためであり、消費者が喜び生産者も不利でない値下がりのことを困るのは、農林役人と失業するカツギ屋たちであるが、これは自然の救済に待つより仕方があるまい。
 もともと国民の不利益のための商売なのだから、全体の幸福のためにも、もっと社会の進歩発展になる商売に転向すべきである。犯罪人が減って、警官や刑務所の巡査が失業することは喜ぶべきことである。
 ヤミ米が値下がりした現在が、統制を廃する絶好期だと言う者があるかもしれぬが、遅きに過ぎたと言いたい。
 米価の変動防止は、外米輸入の操作でいくらでも出来ることを、大正時代からの十分な体験で判っている筈ではないか。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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