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他人に預け過ぎた顎の下

コラム『あまのじゃく』1963/7/27 発行
文化新聞  N0. 4526


物価の高下は消費者の責任⁈

    主幹 吉 田 金 八 

 この間、朝早くある家を訪問したら、その家の家作を借り、その家の仕事を手伝っている人が、庭畑で出来たというキュウリをひと籠を持ってきて、 「出来過ぎたから小さいのを選んでいできました」という。
 察するに、その庭畑もその家のもので、おそらく家作についていて、その手伝いの人が管理しているらしいことは、折角もぎ立のキュウリを「俺んとこでも夕んべもいだばかりだ」と有難迷惑なような顔でそっけなくあしらった態度で想像された。
 その主人のそっけない態度をとりなす気持ちもあって、「ここの家でいらなければ、私が買って行こう」と自動車に投げ込んでもらった。
 その帰路、懇意な家の前を通ったので、「早起きは三文の得で、貰い物だがお裾分けする」と言ってその半分ほどを分けてあげたが、熟れすぎているとはいえ、早朝もぎたてのキュウリは水気もたっぷりで、「やはり取り立ては美味しい」と、そこの家でもまた女房にも喜ばれた。
 野菜なり果物は、時季が来なければ早生ものが珍重され、値段も目のはだかるほど高いが、いざ出盛りともなれば、こさえているところでは処分に困るほど取れるし、市場の値段もバカ安くなって出荷する費用にも足りないほど買いたたかれるのが通例である。
 キュウリ、トマトなどもつい先頃まで一本「こんなものが50円もする」と驚きを聞かされたものである。
 私は生活は気取らないことを信条としているから、「高い初物の時季は保存の利くジャガイモとか玉ねぎで間に合わせて、出盛りの安くなった時にふんだんに使うよう」と口うるさく女房どもを教育している。この私の考え通りに、ほぼ、家庭内で実行されているが、諸事万端この式を生活信条としている。
 だから、行く先々で「タダのものなら馬の死んだものでも遠慮はしない」とザックバランで通っているから、他人様も私には気置きなく何でも呉れ易いようである。
 従弟で揚げ物屋をやっているのが、ほとんど一日おきのように生イカの足をザルいっぱい位ずつ持ってくる。「イカの足だって揚げて安く売れば売れるだろう」と私がもったいながるが、「イカの足は揚げるにも油がたくさん要って、売る段になって安いから商品価値が少ない」という。
 それで、私のとこのお手伝いさんは、このイカの足を揚げるのが日課のようである。
 この従弟の店では魚河岸に連絡があるので、アジとかマグロとかが市場でバカ安い時には、仕入れのついでにそんな魚も買ってくる。
 マグロの刺身などは本職の包丁の様なく素人流のブツ切だが、大皿にイッパイで200円くらいであてがわれるが、「何でも安いものはいつでも引き受ける」ことになっている。
 また、ある懇意な料理店では鯉の洗いを取った残りを、『コイコク』にするようにと、私の顔を見ると冷蔵庫から出して持って行けという。時には元気の出るようにと、その肝を水で飲まされることもある。 この話を聞くとまるでバタヤか残飯屋のようだが、私は諸事この流儀で戦争中から戦後を通じて、気取らず栄養満点、腹いっぱい主義を一貫してきた。
 これが良いか悪いかは家族の中にも親父の方針に批判がないでもないが、「お前たちが病気一つせず、骨格・体重衆に優れているのは万事私の方針に従ってきたからではないか」と私はいつも実証論で異説に対抗している。
 次女が家政を専攻の大学に行っているが、お前がこれから学ぶ学説と親父の体験実学をミックスして、今に国民食堂を作って、大衆に栄養豊富でしかも安価な国民食献立を提供したら?」と提案しているが、親の押し付け主義には疑問を持っているらしい娘たちは、取り合ってはくれない。
 豚肉が高い、野菜が高いと文句を言っているが、文句は言わないで、高いものは買わないことにすれば必ず安くなる。 高くするのも安くするのも自分達ではないか」というのが、私の言いたいところである。
 さりながら最近の食生活、食嗜好の傾向はあまりにもマスコミ、マスプロの影響に左右され過ぎて、日本固有というか自分自身というものがなくなり過ぎていることは不甲斐ないと思う。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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