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嫌われる吉田首相

コラム『あまのじゃく』1954/9/17 発行 
文化新聞  No. 1285


潔く委員会喚問を‥‥吉田総理

    主幹 吉 田 金 八

 吉田総理の衆議院決算委員会への喚問は、堤議長が手続きを拒否する事も悪例、喚問させることも悪例と、何とかその事態を避けさせ様との苦心も、条理と世論には抗しきれず、ついにその手続きを取らざるを得なくなった。
 首相を、事の理非曲直を正すために委員会に出席させて、新聞記者や党大会での放言でなしに、嘘を言えば偽証罪に引っかかる真剣の場所に出てもらって、司法大臣に圧力をかけて職権命令で捜査を中断させ、うやむやに葬りさろうとした政治が、司法権の上を行く感を国民に与えた不明朗な問題に関して、司法大臣や検事総長の如く時の権力に屈服しない、あわよくば権力の腕をねじ上げ様とする反対党の査問にかけることも、この場合、勢いの赴く所で仕方があるまい。
 事ここに至ったことも、造船疑獄に関する政治献金の問題が国民の釈然とする程度まで独立しているはずの司法権が究明し尽くさず、何か奥歯に物の挟まったような段落をつけたことに原因するもので、吉田内閣の悪政は数え上げれば際限はないが、司法権の尊厳に国民が疑惑の目を注がざるを得ないような事態に持ち込んだことは、悪政の最と言わざるを得ない。
 吉田総理は自己に、さらにまた自民党内に説明のつかぬ不正がないならば、進んで検察当局の自由な捜査に任せ、望むとあれば、国会のいかなる査問委員会にも進んで出頭して真実を表明すべきである。
 それを何とかかんとか理由をつけて、誤魔化そうとするから、国民は余計に色眼鏡で見たくなるわけである。首相喚問で、世間も政界も沸き立っている最中、閣議では、外遊についての諸準備を強行し、外遊を理由に委員会への喚問を拒否する方策を講じている動きを見せているが、これこそ委員会に総理に出られて例の人を食って平常から『金を貰ったのがどこが悪いか、その位の事をしなければ大政党は動かしてはいけない』なんて、人も無げ放言でもされては将に命運尽きなんとする自由党の末期の水になってはかなわぬと党幹部が殊更に吉田総理をアメリカに亡命退避させるのではないかとの感を深める。
 自由党千葉県支部が現役衆参議員8名を含めた役員会で『吉田総理の下野』を決議した事なども、ギャングか麻薬密造団の一味が警察に捕らえられそうになっている仲間の1人を『万一捕らえられてドロを吐かれてはかなわぬ』とばかり、一味の手でネムらせてしまうのも、軌を一つにしてる如き印象を与えている。
 権力華やかで金回りの良い時には、『バカ野郎』呼ばわりされながらも、伴食大臣、政務次官の椅子でも貰えるかと思って牛太郎の如くペコペコしているが、親分にその筋の手が回ったり、落ち目になったかと見極めたら、『悪いのは吉田一人のせい』とばかり親分を見切って尻をまくりかねないとは、政党屋と言うものはヤクザにも劣る不人情なものである。
 吉田首相が不人気なのは、自由党が国民に飽き足らないからであって、吉田のみが悪くて、自由党は別なものだと考えたら、自由党も大間違いである。首相、総裁のガン首を変えて、名を何と改めて見たところで、内容は依然同じもので、国民を騙して自分だけうまい汁を吸おうという、吉田イコール自由党の精神は変わらない。
 おそらく国民は、今度はそんなペテンに乗らないであろう。


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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