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新しい葬式の構想

コラム『あまのじゃく』1958/5/29 発行
文化新聞  No. 2913


吉田家式? 新葬祭‥いかが⁇

    主幹 吉 田 金 八 

 飯能の市長選の最高潮だった頃、一年以上も中風で寝ていたおふくろの病態が思わしくなくなった。
 後になってみれば、風邪を引いた熱のためだったろうが、今日、明日にもあの世に行ってしまうのではないかと思うほど、素人目には意気地がなくなった。
 先だっての国会選の時と違って、新聞社も気合を入れた選挙だけに、『この最中にお袋の葬式を出すのはではたまらない』と思った。しかし、人事を尽くして間に合わねば仕方がない事で、戸長とすれば万一の場合の処置については一応方針を立てて見た。
 昭和11年に死んだ親父の葬式は、まだ私が青僧だったので、心の中では古い習慣に反抗しながらも、在り来たりの方法でチャランボロンをやって、土地の風習に従った訳だが、今度はこっちも遠からず跡を追う年配になっており、一家の主権者として意の如く行える立場を占めているので、理想的な葬式を実行してみようと思った。
 第一は、告別式は自宅で行って、葬式は廃すること。
 よく供花香料を辞退するというような黒枠広告の添え書きを見るが、多くの場合、実際には励行されていない。香典は受け取らないと言っても、弔問者も手ぶらでは張り合いがないから、親戚以外の見舞客の香典は百円均一を厳守して頂くことを新聞に広告する。もちろんお返しはしない。こんな趣旨を判って貰うには新聞は重宝である。
 告別式が終わったら、近親者だけで野辺送りを行い、能仁寺の本堂で引導を渡してもらって埋葬する。棺を担うのは僕たち夫婦と孫たち、それに親類の誰からが手を貸すといった、やり方が情味があって本当ではないかと思う。
 これで、一応の葬式は済んだ訳だが、葬式というのは日本の習慣では滅多に会えない親類、兄弟の交歓(言葉が不穏当ではあれば久闊きゅうかつじょす場所)でもあり、自宅が広ければ自宅で一緒に食事をしたり、近況を伝え合うということも悪いことではないのだが、家は狭いし取り込み中でもあるので、その意味で能仁寺の近い東雲亭の一番安い座敷でも借りて、風呂でも浴びてから五百円程度の膳で逝った人の追憶話でもする、という寸法はどんなものであろうか。
 病人の顔色を伺いながら、倅はこんなことを考えてたら、どうした張り合いか、半月も経ったら死にそうなおばあさんが段々と元気になって、もちろん床を離れる訳にはいかないし、半身不自由であることは変わらないが、床の上の明け暮れに不平も愚痴も言わない位に朗らかになり、この分では倅が密かに考えた合理的生活改善的な葬式も、ここ五年位は出さずに終わりそうな雲行きになったことは、意外な儲けものであった。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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