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世の中は男と女ばかり

コラム『あまのじゃく』1963/6/28 発行
文化新聞  No. 4501


何でも話せる楽しい家族

    主幹 吉 田 金 八 

 東京に買い物に行った次男が帰ってきての報告。
 神田駅のガード下トイレで用を足して街路に出た途端、「モシモシ」と呼び止められた。 35歳くらいの人の良さそうな男で風呂敷に包んだ布切れらしいものを差し出して「店の品物だが、タダでくれるから持って行ってくれ」と言われた。
 咄嗟のことで相手の意図がわからず、面倒なことにかかわり会いたくないから無視して通り過ぎたそうだが、「あれは一体何のためのことだろう」というのが次男の不思議。
 『チョロマカシタした品物だから、安く売る』とでも言うのだろうと筋を立ててみたが、安いと言って釣るのではなく、全然タダで持っていけというのだ。しかも交番が目の前にあるのだから、盗品の処分にしては大胆すぎる、と更に疑問を深める。
 『それでは盗んだ品物の分け前を与えておいて関係をつけ、その次に泥棒の片棒を担がせようとしてというのではないか。 それに従わなかったらその分け前を受け取ったことを警察にバラすとか、親たちに告げるとか脅して、仲間に引き込む手段かもしれない。お前も一応良家のセガレと見立てられたのかもしれない』と、親父なりの推理を働かせて判断をしてみた。
 ガード下なんかで盗品を装って1万円もする生地を二千円で売るとかの手は、昔からよく見たり聞いたりするが、タダで呉れるというのは新手と言うべく、その結果を見ないと何とも言えないが面白い話である。
 こんな手で青少年が犯罪の道にずり込まれることが世の中に行われているかもしれない。
 もう一人の、これは娘の方の通学の途中の見聞に「今日混んだ国電の中で、隣にいた女の人のスカートの下に、隣の男の人の手が入っていたのを見てびっくりした」という社会体験が報告されたことがある。
 男は中年の立派な人で、しかもスカートの下に手を入れられた娘さんが平気で顔色を変えていないのが不思議だと言うのである。
 「そんな時は手厳しくツネってやれば良いとか、大声を立てて恥をかかってやるべきだ」と兄弟たちの対策手段はまちまちだったが、「あんまり大げさに恥をかかせて恨みを買って、ケガでもさせられては大変だから、体よく身体をかわすべきだ」 とは大事取りな母親の意見だったが、「身体をかわすと言っても、あんなに混んでいては身体の除け様もないではないか」との実際論もあったりして、なかなか名案に至らない。
 親父は自分が電車の中で、まさかこっちから女の体に触れようとまでの積極的なことをした体験こそないが、混んだ電車で、前や隣の女性が仕方なしに押し付いてくるのを満更でもない気持ちで気分を楽しんだ体験があるから「世の中ってそんなもんだよ」とばかり、そんな問題も段々と娘たちが適当に判断して対処する様になるだろうと、子供達の良識と善処に任せている。
 しかし、何事によらずありのままに報告し、遠慮のない意見を交換するのが我が家の主義である。
 だから、親父も何の秘密もなく、何から何まで女房、子供には筒抜けである。それなりに痛烈な批判を受けることもあるが、気の軽いことも軽い。
 「とにかく神武天皇以来、否、イザナギ、イザナミの命以来、世の中には男と女しかないので、その両性のいざこざがあってこそ、戦争も起これば大文豪、大音楽家も生まれたんだ。どこそこの親父さんは毎日5時には必ず帰宅して、真面目な良い旦那だ等とお前たちは羨むが、そんな電車の時間表みたいな生活なんてつまらないではないか。時に酒場で脱線したり、途中下車し、時に列車に羽が生えて空中旅行するような、変化のある人生の方が夫婦だって面白い。そこに詩があり夢があるのだ」と、親父は自分の都合の良い解釈を加えて指導しているが、この親父の宣伝感化力は相当効いてきたようである。
 「兎にも角にも、男女両性が深く理解し合うことが地上の天国で、こんなに幸せなことはない。お前らはまだ本当の幸せを知らないのだから、早く女房なり亭主を見つけて見なさい」とばかり、この親父、このところ倅や娘の良き道連れの出来るを願うこと切なものがある。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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