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事前運動は公然と

コラム『あまのじゃく』1963/10/20 発行
文化新聞 No. 4597
 


現実実的でない選挙違反事例

    主幹 吉 田 金 八

 いよいよ国会も解散である。 すでに解散を前に代議士連中も国会審議は上の空で、心は選挙区に飛び、浮き足立っていると言う、さもありなんの風景である。
 11月下旬もしくは12月初めの総選挙はすでに予定されたところで、これに当選すれば4ヶ年の間30万円の月給は保証され、有形無形の特典にありつけるが、この総選挙に落ちるようなことがあれば、現代議士は政治的の空白に 罰され、生活の代にも事欠くようになる。
 新人、旧人の代議士たらんとする者には、今まで時に寄せ、事に臨んでの4年間の事前運動は、ことごとに水泡に帰すとあっては誠に真剣にならざるを得ないのも無理からぬところである。
 選挙の前になると新聞や警察が事前運動という事を口にし、文字にする。
 私はこのことは誠にケッタイな事だと思っている。
 代議士が、一人もしくは少数のものの任命になる役人の如き者とか、選任しても誰もやり手のない役職のようなものならば別として、 国民の投票によって任免されるという任免権者がかなり気分本位の大衆にある以上、この大衆に親しまれ、名を知られることは絶対の要件である。
 長年その選挙区に住んで、ことごとに社会的関連で名が売れ、実質の評価された人物は別として、最近のように自民党が政治を独占し、その中の領袖の派閥が政治を動かすような時代で、そのボスが自党というより自派の勢力を増大して、これによって政権の座を固めようということが流行するに至っては、気心の知れた秘書とか金ズルになりそうな家来を選んで、これを全国どこぞ、人物のいなそうな選挙区を物色して、『腹は借り物』式の踏み台として利用する。
 そうした土地につながらぬ候補者にとって、どうしても事前運動は必要不可欠であり、どんな思いをしても、どんなにやかましい法律の目をくぐっても これを十分にやらないことには、第一、名前さえ知ってもらえない。もちろん当選など思いもつかのことである。
 土台、政治家は常に選挙民を意識して、毎日、毎年、一生が選挙のための運動である。
 何処からどこまでを『事前』というか、『事後』というか誠に判然としない。法律に触れる悪質、適法の区別をどこに置くか、という事もハッキリしない。
 人間生活をしている以上、交際仁義はつきもので、それをどの限界を持って事前運動と区別するかが問題であり、法律では一応の目安はあるものに相違ないが、これも事により、人によりまちまちで、こんな事が通用するのかと思うことが抜け抜けと合法で通り、つまらない事が掴まることは意外である。
 私はむしろ事前に限らず、選挙運動は総て自由にして、どうせ取締まり得ない事なら、やりたい放題に放任すべしの論者である。
 団体の催しに金を包んでいく、誰が主催なのか判らない様な団体旅行が、半分にも足りないと思われる会費で散財させる。名入れのウチワ、風呂敷を配る。時外れの時候見舞いや、全然見知らぬ、もちろん関係のない人から退官挨拶、帰朝挨拶、隣組長・町内会長から義理づくめで後援会への入会勧誘、百円位の会費で存分な御馳走でもてなされ、持ち切れぬほどのお土産が出る。
 こんなことが半年も前から見飽きるほど見せつけられている。 こんなことはザラで、選挙民にとってむしろ騒ぎ立てることが不思議のようにさえ感じられる。
 新聞や警察がこと改めて、こんなことを言いはやしても、千円札の偽札づくりがついに捕まらず、結局新札を出してバツを合わせることが当たり前であるかの如く思い込ませたと同様に、「どこが悪いのか」、「うまく、図々しくやった奴の方が勝利だ」と言った法律を恐れるが、信頼感を失わせるに過ぎない。
 どうせ完全に運用されない法律なら廃止すべきだ。行われない不公平な公職選挙中、事前運動の項目は空文で無用だと言いたい。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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