ケネディ・ショックの教えるもの
コラム『あまのじゃく』1963/11/27 発行
文化新聞 No. 4629
どこまで波及、ケネディショック
主幹 吉 田 金 八
ケネディ・ショックによる日本株式市場の暴落は、この事件が2日続きの休日という緩衝的役割があったにも拘わらず、市場開設以来5番目という大幅の下げ幅を見せ、全国から寄せられた売り物殺到で、まるで蜂の巣をつついたような状態であったという。
36年4月にダウ平均1,800円だったものが、2回にわたるケネディに関連する事件、その他で下落に下落を重ね、ついに1,245円と約2年半に600円も下げた。
これでもう大底と言われた株式市況も、どこが底値か判からない、底なしの泥沼だという印象で、株屋街では年末までに株価の健全回復は望み薄、今年のボーナスはお流れという悲観人気がいっぱいだという。株の値なんか上がっても下がっても株を持っていない人達には縁のないことだというのは一般人種のうっかりの考えで、本当はそうであるべきであるが、そうでないのが実際の経済社会の微妙な点である。
現在の社会が池田内閣の下で一応の繁栄らしきものを見せ、街にはビルが建ち、大会社工場は政府公団の資金で工員の住宅を建て、借金をして工場の敷地設備を拡張し、これによって人間は引っ張りだこで、土方でも1,000円、 1,500円の日当が取れ、多収入に任せて月賦でテレビ、応接セットを買い、米屋の小僧さんまでがゴルフクラブを振っているのも、全てが株価の値上がり、株が下火になれば利殖は株より土地だとばかり、土地ブームに浮き立つ、株ブーム、土地ムードに関連する『作られた繁栄』あればこそである。
このムードにつられて坪5,000円だった地価が5万円になり、地坪の面積は別に増えてはいないのだが、自分の財産は 1億円はあるし、自惚れて5,000万の借金を重しとしないのが今の実業家、商業者の心理であり、1,200円の株式が1,800円にもなって大金満家になったつもりでいるのが、株式証券持ちの自己満足ではあるまいか。
そうした水増景気に踊らされたのが現今の日本人全部ではないだろうか。
要は「金が増えたつもり」「今後儲かっていくつもり」「いくら作っても羽が生えて売れるつもり」の繁栄に至っているのが日本経済の実態ではなかったろうか。今度のケネディショックはそうした浮かれ人種に、まさに『冷水三斗』である。
政府は政策の目標を物価対策に「公共料金は今後一ヵ年は絶対に上げないこと」を強力に推進する決意をほのめかした。
物価は上げまいとしても、世の中のカラクリは政府の口先ばかりではどうにもならない仕組みのものだが、政府が下げまいとしても不景気が起これば仕方なしに物価は下がる。すでにオートメーション式に生産される商品は出来すぎて乱売の気味は十分である。
国内ばかりの需給ではなく、ケネディの死でアメリカの政策も大きな転換も見せるかもしれない。
あらゆる生産品がアメリカの鼻息で輸出がストップすることも考えられるし、そうした社会関係から国内市場は氾濫して大会社、大工業が虫の息にならない限りもない。
人手不足で人間でありさえすれば引っ張り凧の労働需給も、人が溢れ職がない状態にならない限りもない。
そうなれば50円の支那そばを30円で売る屋台も現れ、いくらでも使ってもらいたいという労働者が街にあふれる時代が現出しないとも限らない。そうでないことを望み、繁栄を持続するために政府内閣が力を尽くしても、どうにもならなかった大正、昭和の初期の不景気を想起して、現代のおごりに安座することに内省することも思い過ごしかも知れないが、ケネディの死去による日本株式界のショックは教えるものがある。
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】
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