言の葉ノ架け橋【第2話】
羽根木くんの場合(前編)
羽根木蒼空くんは結局、一週間休んだ。
休むという連絡はあるのだけれど、風邪や熱ではないらしく、電話口のお母さんの言い方も歯切れが悪い。
金曜日。
彼の担当の藤原先生が午後出張に行ってしまった日。蒼空くんのお父さんから電話がかかってきた。
「蒼空くん、体調はどうですか」
「具合が悪いわけではないんですが、あの、相談したいことがありまして」
「どうぞ。何でもおっしゃってください」
いつも電話をかけてくるのはお母さんなのに。なんだろうと少し緊張する。
「今から、そちらに伺ってもよろしいですか」
「あ、でも藤原先生は本日出張で、」
「藤原先生じゃなくて」
「臨床心理士の先生も金曜は、」
「いえ。犬の先生いますか?」
犬の先生?
私の言葉を遮ったお父さんが、予想外の事を言った。
「犬を連れてきている先生がいると伺いましたが」
「ああ。はい」
もしかして犬を連れてきていることによるクレームだろうか。保護者全員の許可は取っているけれど。
「私、ですが……なにか」
「ああ、よかった。先生とお話がしたいんです。お願いがあるんです。その犬は、今日はいますか?」
「犬、ですか? いますけど」
「今すぐ、妻と二人でそちらに伺ってもいいですか。お願いします」
私というより、ウメ子に会いたいということだろうか。なぜだろう。
お父さんの必死さと強引さの混ざった言い方に違和感があった。
お父さんに対する違和感だけではない。
さらに、自分の記憶の中の違和感。
以前にも、誰かに似たようなことを言われた気がする。デジャビュってやつだろうか。僅かに頭痛がしてきた。早く帰りたいけれど、「今すぐ伺いたい」という親御さんの気持ちを断る理由はない。
「門馬がお待ちしております」と丁寧に伝えて電話を切った。
*
「ちょっとハッパをかけたら、すっかり拗れてしまって。お恥ずかしい話です」
蒼空くんのお父さんは、私の正面に座るなり背筋を伸ばして言った。蒼空くんのお母さんは、ハンカチで口元を隠してうつむいている。
玄関と職員室の間に挟まれた「相談室」。その掃き出し窓のすぐ外には、クスノキに繋がれたウメ子がいるのが見える。
蒼空くんのお母さんは立ち上がって掃き出し窓を開けた。ウメ子がゆっくりと近づいてくる。リードは繋がれているけれど、お母さんは手を伸ばしてウメ子を優しく撫でる。
フガフガフゴフガブゥ
ウメ子の声を聞いたのか、木の上にいたヨウちゃんも飛んできて、外の水栓柱の上にちょこんととまった。
ウメ子はずっと鼻歌を歌うようにフガフガ話し、ヨウちゃんも返事をするように、日本語ではない何かを話している。
「すみません。気になりますよね」と謝ると、お母さんは「いえ」と俯きがちに言う。
お父さんは椅子に座ったまま、少し怪訝そうな顔をして「この犬が」とウメ子をジロジロ眺めている。
私はあわてて話の続きを促した。
二年の二学期から学校に通えなくなった蒼空くんは、三年になってから心機一転『かけはし』に通いはじめた子だ。最近表情が明るかったし、先週は自分から中学校の授業に出たいと言いだしたので、私たちは良い兆しだと思っていた。
ところが、ご両親は色々たまっているのだろう。
翌日の土曜、ついイライラして怒鳴ってしまったと言う。
「他の子は学校で六時間勉強して塾にも行っているのに、ソラは一体何時間勉強したんだ。たった一時間で帰ってくるなんて、と」
ハッパをかけて拗らせたというより、一方的にお父さんが怒鳴ったのではないかと思う。
「受験生ですものね。焦りますよね」
私はなるべく共感する。
「でも蒼空くんは、親御さんの焦りや期待を分かっているんだと思います。わかっているからこそ、自分でももどかしいのかと」
「分かっているなら、やるだけなんですけどね。なんでやらないのか」
お父さんは眉尻をあげ、大仰に溜息をつく。
「しかも調理実習だけなんて。あいつは楽しい事だけやって、あとはサボって何とかなると思ってる。社会に出たらそんなわけにはいかないのに。そんな甘い考えの奴に事務所を継がせられるか、って言ったんですよ」
羽根木さんは建築士だ。
「あいつは将来建築士になるって毎年言っておきながら、たいした努力をしない。少しは焦ってくれるかと思ったんですが」
私は頬を無理にあげて共感する。
「そうですよね。でも、ここに来たらずっと問題集を解いてますから。蒼空くん、すごく努力しています。頑張っていますよ」
問題集を解いてなくっても、ここに来るだけでも、朝起きるだけでも、生きてるだけでも頑張っているんですよ。
お父さん、分かってあげてください、と本当は言いたいけれど。
お母さんはこちらに背中を向けたまま、ウメ子を撫で続けている。
「でも先生。いまだに一年の問題集です。受験に間に合わないですよね?」
お父さんは声を大きくする。
「春の全国テストも受けてないし。蒼空が今どの位置にいるか、さっぱり分からない」
うんうんと頷きながら、話を学校に伝えるために “全テ、気になる” とメモをとる。
「ですよね。えっと、夏休みに急にやる気を出す三年生もいますから。特に一年の時の復習は、だいじ――」
「いやね、先生」
お父さんは私の話を遮った。
「蒼空は学校行ってない分、今がチャンスじゃないですか。夏になって部活が終わって、みんなが猛勉強をはじめたら、余計に差が開いてしまう」
「チャンス?」
「そうです。夏休み入る前までに学校を休んでいた分を追いつかせたい」
ああ、なるほど。
二年で登校しなくなった当初、親御さんは引き摺ってでも学校に行かせようとすごい剣幕だったという。けれど三年になったら無理やり学校には行かせようとしなくなったと。
きっと不登校というものに理解ができて、ゆったり構えるようになり、それで蒼空くんも気持ちの余裕ができて、ここに毎日来れるようになったと思っていたのに。
私は下唇を軽く噛んだ。
学校も部活も行かないぶん、勉強する時間がとれるからかえって都合がいいと思っていただけなのか。ここで出席日数を満たせば内申はなんとかなると。
ところが肝心の勉強が進んでないことに気付いて、焦っている。
「学校に行けるなら行けって言ったんですよ。ここまで妻が車で送り迎えするのも大変なんです。学校の別室登校なら給食も出るし。ああ、給食費はずっと引き落とされてるんです。すぐ戻れるように。なあ?」
お母さんのほうを見て声をかけるが、お母さんは俯いたままだ。ウメ子を撫でる手は止まっている。
不穏な空気に気付いたのか、ウメ子が「グルグルグル」と心配そうにみんなを見渡す。
ヨウちゃんはバタバタと羽を広げ「オ腹空イタァヨォ。ナッツ、チョーダイッ」と場違いなことを言う。
誰も笑わない。
「先週行ったら、もう行けるだろうって思ったんですが、ハァ」
お父さんは軽くため息をついた。
「あぁ、えっと」
少し前向きになった我が子に対して、急にあれもこれもとお父さんは期待し過ぎている。
インフルエンザで熱が下がった翌朝に、マラソン大会に出ろと言わないように、休息や心の栄養が足りていない子に、毎日学校に行ってガツガツ勉強しろなんて。
無理言わないでほしい。
蒼空くんは今まで、ここに登室するだけで力を使い切ってしまうくらいだったのに。
「少なくとも『かけはし』には来て出席日数は稼げって言ったんですよ。出席日数は大事だから」
一日だけ学校に行けたことで、お父さんは蒼空くんに勝手に期待をかけ、勝手に裏切られた気持ちになっている。子供はそれを敏感に感じ取って、また自分を責める。
登校刺激というのは、とても難しいのだ。
そう思いながらも、お父さんの剣幕に押されっぱなしで思うように伝えられず、つい愛想笑いしてしまうのが情けない。
「蒼空がですね、明日は行くって。昨日、自分から言ったのに、その約束も守らない」
「あ、守らないというか、本当に行くつもりはある……んだと思います」
自分から約束したわけではなく、強制的な約束だったとしても、その気持ちは嘘ではなかったと思う。
親を安心させたくて、自分も行けると信じたくて、「行く」と言う。
だけど朝には体が動かないのだ。おそらく蒼空くんも。
あの頃の私と同じように。
ずっと黙って俯いていたお母さんが窓辺で屈んだまま、顔をあげた。
「あの子、私にそっくりで」
小さく呟きはじめた。
「コロナで人との関わりを避けてきて、今さらどう関わっていいのか分からないみたいなんです。先生とも、クラスの子とも。だからもう、学校に戻ってもつまらないんだと。すごく内気で。小さなころから、もっとちゃんとコミュニケーションの取り方を教えればよかった。私の育てかたがいけなかったんです」
蒼空くんは、確かに内気で大人しい。
東中学校の校風と少し合わない、ところもある。
東中学の先生方は、人前で意見を言わせたり仲間で話し合わせたりする授業を好む。生徒をファシリテーターとして授業を回させたりなど、先進的な授業を好む先生も。それ自体はとても素晴らしい。
ただ、ひたすら「正答」を見つけることを是とされてきた子たちは、どう動いたら良いのか分からず戸惑う。中には、他の人の考えをさりげなく馬鹿にし、排除しようとする子もいる。先生のあずかり知らぬところで。
考える楽しさより馬鹿にされる恥ずかしさや辛さが先に立ち、殻に閉じこもってしまう蒼空くんのような子には苦痛でしかないのだろうけど。
こればっかりは、性格の問題とか、少しずつ経験を積む、しかないのだろうか。
蒼空くんが学校に行きづらくなったのも、そういった授業の時に起きたことがきっかけだったと、以前、お母さんは言っていた。
「ちょっとおっとりしているので。私がなんでも先回りして、あの子の代わりにやってしまったのがいけなかったんだと」
「お母さんがいけないということは……」
「友達をつくるのも上手くいかなくて」
「あぁ、中学生の友達問題は難しいですからね」
何のアドバイスにも解決にもなっていないけれど、とりあえず共感だけはしておく。
「そんな話を今日、妻としていて。思ったんですよ」
お父さんが強めに話しはじめた。
「二年の秋、クラスメイトに馬鹿にされたことがありましたよね。蒼空は相当ショックだったみたいで。あの時、妻が腹を立てて、馬鹿にした子の家に電話で抗議したんです。西村君です。屋台の」
「屋台?」
私が尋ねると「移動パン屋さんです」とお母さんが教えてくれる。
ああ、自動車で移動して売っているパン屋の家の子がいるというのは他の生徒から聞いたことがある。 安くて美味しいと。
それに、問題となった授業でのことも学校から聞いている。理科のタンパク質の分解について予想し合う授業で、理科の先生曰く「西村君とは単なる意見の対立だったし、特に問題はない」。
ただ、担任の先生いわく「もともと一人でいることの多かった蒼空くんが、それ以来さらに孤立していたのかもしれない」と。「虐めのようなものではないが、蒼空くんの孤独に気づけなかった」と先生は気にしていた。
電話の話は初耳だった。
小学生ならまだしも、中学校でクラスメイトの親に抗議の電話を入れるとは少し過干渉なのかもしれない。
「別に屋台ひいてる家と一生付き合うわけでもないんだから、気にするな、忘れろって私も蒼空を励ましたんですが」
励まし。その言葉のチョイスはなんか違う気がして、無意識に “抗議電話 ← 孤立の原因? “ とメモに書いた。
ふと横を見るとウメ子がじぃっとこちらを見ている。真っ黒い丸い瞳で見つめられると可愛くて頬ずりしたくなるが、今それどころではない。
ヨウちゃんは、ウメ子の背中と水道を行ったり来たりして、たまに「オ腹空イタデス。パン、ください。パン、ください?」とお喋りしている。今それどころではない。
「先週の土曜日、蒼空が、西村のハンバーガーを買いたいって言い出したんです」
「あ、はい」
「調理実習の次の日です。なんだか平然と言うので無性に腹がたってしまって」
「はい……」
「なに言ってるんだ、あの子のせいで学校に行けなくなったのに悔しくないのか。屋台がお前よりいい高校に行ったらどうするんだ! って思わず怒鳴ってしまって」
ああ。
「そしたら、あいつ泣き出して」
その言い方はさすがにまずいですね、とは言えない。
「西村君のせいじゃないって言い返してきたんです」
「え」
西村君ではなく、他の子に何か言われたのだろうか。
私の疑問に対して、今度はお母さんが震える声で言った。
「ぼくの、ぼくの唯一の友達だったのに、電話なんかしやがって、って……」
「あっ」と思わず声がでた。
そうか。友達だったのか。
授業中に友達から笑われて嫌だったけど、家でその話をしたら親が思った以上に怒り出してしまった。友達の親に抗議の電話をかけるほど。
蒼空くんは「もともと一人でいることが多かった」のだから、西村君はどう思っていたのか分からない。でも、少なくとも蒼空くんにとっては、西村君が唯一の友達と思える存在だった。
その西村君が、蒼空くんを避けるようになった?
「西村君がいつも自慢していたハンバーガーは本当に美味しくて人気なんだって。母さんがいつも買う牛肉のより柔らかくてジューシーで。安い素材で工夫してるんだ。バカにするな、みたいなことを言って。顔を真っ赤にして怒ったんです」
主婦みたい。場違いな感想が頭に浮かんだ。でも、蒼空くんがそんな言いかたするのは意外だったし、あの無口な蒼空くんが、真っ赤になってそこまで怒ったというのも意外だ。
普段は大人しくて内気なのに、大切な人を馬鹿にされたら本気で怒る。
「フガフガブヒブ……」
「親子そっくりー、そっくりくりネー」
ヨウちゃんが余計なことを喋り出すので、慌てて咳ばらいをして誤魔化す。
「だから、もし、あの日がなければ」
お母さんの言葉に、ウメ子が顔を上げて丸まった尾をキュンと上げた。
ヨウちゃんは、まん丸の瞳で、首をかしげながら聞いている。
「あの日?」
「はい。西村君が蒼空を馬鹿にした記憶や、私が電話したという対応が、なかったことになれば。回復が早いかもしれないと。そろそろ一歩を踏み出して学校に行けるかも、と」
「あ、でも。電話のことは蒼空くんに謝ったんですよね?」
私がご両親ふたりの顔を伺いながら言うと、お父さんが毅然として言う。
「たとえ謝ったって記憶は消えませんよ。すっかり拗らせてしまったんです。だからこうやって恥を忍んでお願いしにきているんです」
「ああ、はい……」
謝ってないのか。せめて謝ってもらえたらいいのに。
「だから、お願いします」
お父さんが突然すっくと立ちあがって窓辺を指さした。
「この犬ですよね? 噂のウメ子先生ですよね?」
「噂? ウメ子、先生……」
何を言い出したのか分からず、ぽかんとしたままウメ子とお父さんの顔を見比べる。
でも、ウメ子の事を「ウメ子先生」と呼ぶ人が、他にもいたような気がする。
「妻が瓜生さんから聞いたんです」
「瓜生さん?」
「昨年、ここに来ていた。瓜生諒太くんのおたくです」
「ああ、はい」
瓜生諒太君は、中三の最初のころ何度かここに見学と相談に訪れた頭の良い子。ここに馴染まないうちに、突然、学校に戻った。そして県内で一、二を争う高校に合格した子だ。
その瓜生君から、一体何を聞いたのだろう。
「ウメ子先生に話を聞いてもらえたら、後悔していた一日を食べてくれるって」
「は?」
「半信半疑ですが。傷は浅いうちになんとかしたい。あの一日を忘れてしまえば、次に進めると思うんです。だから、あの日を食べてください」
「食べる?」
「バクが夢を食べるように、パグが起きている一日を食べるって」
何を言ってるんだろう、このお父さんは。
私はぽかんとお父さんを見上げた。
「蒼空の、あの日を。食べて、なかったことにしてください」
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