言の葉ノ架け橋【第4話】
高草木さんの場合(前編)
「うまっ」
お風呂上りに月いちのご褒美、ハーゲンダッツの期間限定クリーミージェラートのピスタチオ&サマーバニラを食べた、わけではない。
教室の隅で、こっくりこっくり船を漕いでいた高草木美羽さんの背後から机上のノートを覗き込み、そこに描かれていた鳥のデッサンが、あまりに上手で声が出てしまったのだ。
「うんまぁ」
再度ため息のような声が漏れる。
美羽さんが目を覚まして慌ててノートを閉じた。
美羽さんは、問題集も解くけど絵を描いていることも多い。近づくとすぐノートを閉じてしまうのでじっくり見たことがなかったけど、こんなに本格的だとは思わなかった。
「すごいじゃん、もう一回見せて」
美羽さんは首を横に振る。
「あ、この本を見ながら描いたの?」
裏返しになっていた図書室の本は『鳥の生態図鑑』だった。美羽さんはノートの下に図鑑を隠す。
「好きなだけ描いてて大丈夫だよ」
彼女はまた、横に首を振る。
「あ。ヨウちゃんとか描けるかな。こんな繊細に描いてもらえたら嬉しいなぁ。天才だね」
ノートと図鑑を鞄にしまおうとしていた彼女の手がピタと止まる。あまりいい感じの反応には見えなかった。
「あ、ごめん。ごめん。気軽に描いてって言われるの嫌だよね。そんな簡単なもんじゃないよね」
漫画家さんに「なんか描いて」、漫才師に「なんか面白いこと言って」。そんな安売りできるかってことだよね。プロじゃないけど、特別仲の良い間柄じゃないと嫌かもしれない。
その証拠に、美羽さんの手が動かない。まずい。
「私はとにかく絵がヘタでさ。だから美羽さんみたいに描ける人が羨ましい。そう言えば子供のころ年賀状で、酉年のとき。ニワトリの絵をがんばって描いたことあるのよ。そしたらさぁ」
彼女は、もう聞いてないかもしれない。でも喋り続けた。
「あはは。顔とか、体が、こーんな薄くって。見て見て。こんな。あはは。バカにされたわ。なんか仁王立ちしててウケルって大笑い」
肩と頬をきゅっとすぼめておどける私を、美羽さんが怪訝な顔で見上げた。
「あ、ごめん。えーっと。あ、そうそう次の時間、図書室で上野先生が将棋を教えてくれます。行くひとー?」
教室全体を見渡して言った。
*
「そんな感じで。美羽さんに睨まれちゃった」
子供たちは全員帰った夕方。藤原先生は会議がある中学校から直帰で、職員室には遠山と私だけ。日誌を入力しながら今日のことを思い出して話をしていると、遠山がメモ用紙とペンを差し出してきた。
「描いてください」
「何を」
「ニワトリ」
「やだよ」
なんでまた笑われなきゃいけないのよ。冗談じゃない。
「本当ですか」
「何が」
「ニワトリの正面を描いたんですよね」
「なんで嘘つく必要があるのよ。高校生の頃の話だけどね」
「じゃあ描いてくださいよ」
「やぁだっつーの」
メモ用紙とペンを押し返してやっと遠山は諦めたように言う。
「どうしてその発想になったんですか」
「はぁ? 年賀状に干支を描くのは普通でしょ。酉年って、え、ニワトリでしょ? 鳩? うぐいす? あ、トキだった?」
「いや、ニワトリですよ」
「なによ! じゃ何のイチャモンなのよ」
「イチャモンじゃないですよ。正面から描くって発想はどこから来たのか、って話です」
「え?」
思いがけない問いかけに急に思考が停止する。
なぜ正面から描いたか? そんなこと考えなかった。だって絵を描くなら正面じゃない?
「え、何。みんなは後ろ向き描くの?」
遠山は心底呆れた目つきで少し身を引いた。
「門馬先生、そんなわけないでしょ。普通は横向きとか斜めとかですよ」
「ななめっ?」
思わず悲鳴のような声が出てしまった。
「斜めなんて描けるわけないじゃない。斜めってことは、何、その、遠近法とか、陰影とか、どうなるの。うーん。とにかく想像つかな……あ」
今日見た美羽さんの絵も、鳥は斜めに羽を広げていた。
「そっか。彼女は本当に絵がうまいんだ。斜めだったもん。斜め。もう、本物の鳥だったよ。なんて鳥かは知らないけど、大空を飛んでた。いや、まるで、飛んでいるように見えたわ」
あらためて思い出して感動していると、遠山は書類を片付けながら言う。
「飛んでいるように見える構図、視線の誘導が計算されていたのかもしれませんね。興味あるな。見てみたい」
「え、視線の誘導? そんな計算なんてできるの」
遠山はため息をついた。
「門馬先生は、そんなんで小学校でどうやって図工を教えていたんですか」
「うーん。図工専科の先生がいる自治体だったし。図工は絵の技術を教える教科じゃないし」
「そんな先生に、嫉妬したのかもしれませんね」
「嫉妬?」
「ニワトリを真正面から描こうだなんていう発想に。コイツ、ただもんじゃねえなって」
「コイツ?」
「天才って意味です」
「あら、そう」
コイツ呼ばわりされたのに、あっさり受け入れてしまった。
「あ、それです」
遠山は急に真顔になった。
「それ?」
「天才って言われて、喜んだり、冗談と思って聞き流したり。本気で取り組んでいる人なら、そんな反応しないですよね」
本気で?
遠山は冷静に続ける。
「本気で上を目指している人は、全然別の場所から天才だなんて気軽に言われても喜びませんよ。うまく表現できない作品を、天才なんて一言で誤魔化すなよ。理解しようともしないで馬鹿にしてるのかって、僕なら思っちゃいますね」
馬鹿にしてるなんて、とんでもない。本当に素敵だと思った。だけど美羽さんを傷つけてしまったのだろうか。本気で上を目指しているから?
「あ、すみません。じゃ、今日はこれでお先に」
遠山はさっさと名札を裏返して出て行った。
「あ」
また先に帰られた。
鍵と電気を忘れずに確認して帰らなきゃ。
それにしても、遠山先生は絵が好きなんだろうか。今度美羽さんの絵を見てもらいたい。的確な評価をしてくれるだろうか。
机の上の荷物を片付け、目についた黄色い付箋に、何気なく年賀状のニワトリを描き始めた。
「うーん。やっぱりヒドイな」
腹が立ってきたので別の付箋紙にもう一羽描く。さっきよりうまい気がする。
面白くなってきたので別の付箋紙にもう一羽描く。うん。いいぞ。
斜めも描いてみよう。
うん。これは酷い。
そうして無駄な時間を過ごしていると外からヨウちゃんの「オハヨー、オハヨーゴザイマァス」の声がした。
「やだ。おはようじゃないし。誰だろう」
駆け付けてみると美羽さんが立っていた。クスノキに繋がれたウメ子をじっと見つめている。
「美羽さん。どうしたの? 忘れ物?」
彼女は、はっとした顔をしてから首を横に振る。
「どうした?」
「先生……」
美羽さんはゆっくりと上目遣いで私を見てから、ウメ子に目をやる。
「ウメ子先生に、お願いがあります」
うわ。なんか、きたよ。
「ウメ子」に「先生」とつけて呼ばれると、無意識にこめかみに指をあててグリグリしたくなる。なんか、嫌な予感。
「ウメ子先生をおばあちゃんに会わせたいんです。一緒に来て」
*
自転車を引いて歩く高草木美羽さんと並び、バギーにのせたウメ子と一緒に川沿いを歩く。美羽さんのお母さんはよく知っているけれど、確か、同じ敷地内に住んでいるお祖母さんには会ったことがない。帰る方向と同じだったし、ご挨拶だけしておこうと思った。
ヨウちゃんもご挨拶だけしたかったのか、一緒についてきた。バギーのカバーの上にチョコンと立ち、「イイネー、イイネー」と何か楽し気だ。
ウメ子は、いつもと違う道に気付いたのか、あれ? あれ? という感じに首を左右にかたむけている。
「ここ」
急に立ち止まった美羽さんが指さしたのは、どうみても普通の家ではなかった。老人用の施設。老人ホームかな。「青葉の家」という看板が掲げられている。
「ココッ、ココッコー」とニワトリの音階でヨウちゃんが繰り返す。
「ここ? ごめん。美羽さんのおばあちゃんの家に行くんだと思ってた。ここは、ウメ子と一緒には入れないんじゃないかな」
美羽さんも、それには今気づいたという感じでハッとして、「そっか」と肩を落とした。
二階建てのシンプルな外観を取り囲む生垣に、大きな駐車場。「どうする?」と相談していると、心なしかウメ子がソワソワし始めた。フゴフゴフゴと鼻を鳴らす。
駐車場に停められたバンから、ご老人と職員のような人が数人続けて降りている姿に何気なく目をやる。
ひとりのお爺さんがバギーのウメ子に気付くと、急に瞳を大きく広げ、飛びかかる勢いで「あああっ」と大声をあげて近づいてきた。
職員の女性が慌ててお爺さんを止める。
「どうしましたー。危ないですよー」
私が慌てて後ろに下がると、ヨウチャンがバタバタと音を立てて飛び立ち、施設内の植木に向かった。ウメ子も驚いたのか、体をビクッと震わせ喉の奥をギュルルルと鳴らしている。
「コウメ!」
お爺さんが叫んだ。
コウメ?
美羽さんが「びっくりしたぁ」と小さく呟くと、職員さんが「あら、高草木さんのお孫さんよね? こんにちは」と声をかけてきた。美羽さんも知っている職員さんなのか、無表情で頭をさげる。
お爺さんは必死にこちらを覗き込もうとするけれど、大柄の職員さんに運ばれるように施設の中へと下がっていく。
ヨウちゃんが無言だった美羽さんの代わりに、木の上から「コンニチハー、コンニチハー」と連呼しているけど、たぶん職員さんは気づいてない。
「おばあちゃんに会いに来たの?」
「いえ、通っただけです」
美羽さんは慌てて否定してその場から去ろうとした。
「え? いいの? 帰るの?」と声をかけても離れていくので、私は職員さんに一礼してから「待って」とバギーを押して後を追う。
「あらやだ。ワンちゃんだわ。赤ちゃんかと思った。かわいいねぇ」
車から降りてきた別のご婦人が、ウメ子に向かって微笑んだ。
背後で「そうか。カツトシさん、ワンちゃん大好きですもんね」という声を聞きながら美羽さんを追いかける。ヨウちゃんも何か喋りながら慌ててついてきてバギーのカバーに止まった。
ウメ子は思い出したようにバギーの縁に前足をかけ、後ろを覗き込んだ。
大人しかったしっぽがピョコンと立ち上がり、わずかに左右に振れる。メトロノームのようにゆっくりとリズムを刻みながら。
フゴフゴフゴフゴ
「先生、さようなら」
美羽さんはそう言うと引いていた自転車に乗って走って行ってしまった。
「気を付けてねー。明日、話きくよー!」
とりあえず背中に声をかけて見えなくなるまで見送る。
その間もずっと、ウメ子はホームの駐車場を見つめ、メトロノームの尾をゆっくりと動かしていた。
左右に揺れる尾に合わせたように、ヨウちゃんは懐メロを歌いながら、高く飛び上がる。
「ワッスレラレナイノォー」
古い歌だな。飼い主さんはご高齢なのかな。
徐々に遠くなるその声を聞きながら、取り残された私も家路に向かった。
*
翌日、美羽さんは通常通り登室した。
午後の運動の時間。上野室長と藤原先生は、体育館で本気の卓球を中一の女子に教えていて笑い声も聞こえる。運動を好む子は、結構いつも元気があってほっとする。
運動を希望しなかった子供たちには、庭の草むしりと花壇にローズマリーを植えるのを手伝ってもらうことになった。
美羽さんはジャージ姿で、靴を履きかえてすぐの階段でぼんやりとしゃがみ込んでいた。
「美羽さん。今日は疲れた? 終わったら、おやつがあるってよ。二階堂先生が温泉まんじゅうをくれたから、汗をかいたらお茶とお饅頭をいただいちゃおう」
二階堂先生は、週二回勤務で子供達や保護者の相談に乗ったり、私たちと子供達の支援について一緒にプランを考えてくれる、臨床心理士の資格を持った先生だ。
美羽さんは、温泉まんじゅうでは釣れなかったらしい。あまり反応がない。
苗のポットを花壇に運んでいた遠山が「門馬先生、きびだんご大好きですね」と嬉しそうに言う。
「きびだんご? 温泉まんじゅうだって」
「ああ、すみません。犬に、鳥に、サルだから間違えました」
【犬】のウメは不思議そうな瞳で遠山を見つめて「フガフガ」言う。
【鳥】のヨウちゃんは実際に「ナーニ、ナーニ?」と聞く。
「サル?」
「はい。モンキーです。もん……きぃ」
遠山。それは、言ってはいけない言葉なのだよ。門馬希生だから、略してモンキー。小学生の頃、さんざん馬鹿にされてどれほど不愉快だったことか。
ヨウちゃんが「モンキー、モンキー」みたいな言葉を発しながら遠山の帽子の上に止まる。
美羽さんにドヤ顔を見せる遠山と、ヨウちゃんの高い声が余計に私をイラっとさせた。
「遠山先生!」
私が怒鳴るとびくっと遠山は数センチ飛び上がり、帽子の上にヨウちゃんを乗せたまま花壇に走り去った。
それでも美羽さんはニコリともしていない。
「やんなっちゃうねぇ。遠山先生ったら。鬼退治してやったわ」
そう言いながら美羽さんの隣に座り、言葉を探す。
「昨日の、ウメ子とおばあちゃんを会わせたい件、どうしよっか」
彼女は首を傾げて悩んでいる。
「会わせて、どうしたかったのかな」
優しく問いかけると、暫くしてから上目遣いで私を見た。
「お祖母ちゃんの一日を、ウメ子先生に食べてもらいたい」
「食べる?」
「うん。食べて、消してもらいたい」
ウメ子が鼻を「ブヒブヒブヒ」と鳴らす。
「パグが何でも食べる食いしん坊さんだからって、一日を食べるって、どうかなあ」
あえて冗談みたいに笑いながら言ったけど、美羽さんは真剣な目で私を見つづける。困ったな。
「えーっと。ウメ子のその噂は、誰から聞いたのかな。瓜生くん?」
美羽さんは、瓜生君や羽根木蒼空くんたちとは学区が違う。少し不思議そうな顔をして「お母さんから」と答えた。
美羽さんのお母さんは、誰から聞いたのだろう。
微かに頭痛がしてきた。気圧の変化による頭痛だろうか。こめかみを押さえながら、続きを尋ねた。
「食べてなくして欲しいって、どんな日だったの?」
離れた花壇で作業中の、遠山の帽子にとまっていたヨウちゃんが、バサバサと音を立てて飛んできた。クスノキの低い位置の枝にちょこんと止まる。
「話を聞きますよ」と言うように。
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