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残夢【第一章】⑫父親

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鳩巻署に戻ると警務課の中から稲元夏未が飛び出してきた。
「堂森さん! お帰りなさい。さっき近堂ひろ子に面会したいって人が来たの。父親だって」
 
「父親?」

父親は近堂が子供の頃に協議離婚している。現在の所在は分かっていない。
「それでどうした」
「お昼の時間であることを最初に言ったらキレちゃって。まともな話もできないまま出て行っちゃったわ」
「うちの課の誰かに伝えたか」
「伝えた。嶌村さんが後を追って外に出たけど、もう見当たらなかったって」

「どんな男だった」
夏未は顔を顰めて思い出すように言った。

「臭くて汚くて、申し訳ないけどホームレスかと思った。新聞で娘が逮捕されたのを見たから会いたいって。今は昼休みだからどなたも面会できませんが、面会できるかどうか係の者が調べますよ、どなたの面会希望ですかって聞いたら怒りだしてね。税金で食ってるやつが昼休みなんてふざけるなって」

「税金でお昼ご飯食べてるのは娘のほうだっつーのに。ねぇ」
曽根が隣で軽口をたたいた。

「それで、親なんだからすぐに会わせろって怒鳴るの。でね、階段のほうに似た人を見たのか、ひろ子!って叫び出したの。でもうちの課長が出てきたら急に逃げてっちゃった。時間がないからまた来るって」

留置所にいる女で「ひろこ」といえば今は近堂しかいないはず。
「若い女には強く出るけど、権力や男には弱いタイプだ」
曽根が言った。
「そうかも。私もちょうど制服の上にコート着てたから警官とは思われなかったのかな。舐められたかも」
と夏未も同調する。

「本当の父親だと思うか?」
「嶌村さんにも聞かれたけど、分かんないわ。顔がそっくりってわけでもないし。でもまた来るかも」

わかった、ありがとうと礼を伝えて刑事課に戻ると、嶌村はさっそく近堂にその件を伝えるつもりのようだった。

離婚した父親となると効果があるかどうかは分からないが、家族が心配していると知っても全く心が揺れない被疑者はいない。迷惑をかけたと反省しだすものもいれば、その家族のせいでこんな目に遭ったと怒り出すものもいる。

午後の取り調べはマジックミラーのある部屋が空いていたので嶌村は近堂をそこに通した。俺も様子をそっと伺う。


「お父さんらしき人が面会に来られましたよ」
嶌村の言葉に近堂の瞳が動いた。表情は特に変わらない。

「あなたに会いたいと叫んでいたようです。心配なようですね。ちゃんと手続きをしていただけなかったので面会は叶いませんでしたが、次に来られた時は、お父さんに会いたいですか」

無表情だった近堂はそこまで聞いて「ぷっ」と軽く吹いた。

嶌村は近堂を観察する。一度息を吐いた近堂は、こみあげるものを押さえられないように肩を揺らしながら俯いて小さく笑いだした。

「ふっふっふっ、ふっ」

口元に手を当て下を向いたまま徐々に大きく肩が揺れる。頭を前後にゆらすと肩より少し長い髪がゆらゆら揺れる。坂道を転がり落ちる石が徐々に勢いを増すように、近堂はその笑いを止めることができず、とうとう口を開けて笑い出した。

「あはっ。アハハハハッ」

嶌村はその様子を暫く眺める。笑いの後にどのような言葉を発するのか、待ち続けた。

「はっ。ハァー」

大きくため息をついて呼吸を整えた近堂は「あいたいですか、って」と、そんなことあり得ないというように首を横に振ってまた笑った。

「父は、ハハハッ。ち、父は、フッ」
肩を揺らしたまま近堂は嶌村を見つめて言った。

「父は、死にましたよ」

そしてまた「アハハ」と大きく笑い出す。嶌村は近堂に話を合わせた。
「亡くなったのですか。いつですか」
近堂は笑いながら考える。
「えーっと。私が、小学校の頃? もっと前だったかしら。ふふっ」
そして真正面を捕えて笑顔のまま告げる。

「殺したんです。母が」

嶌村の眉間に皺が寄った。
そんな情報はない。近堂の母親は離婚後ひろ子を育て事務職や工場のパートで生計を保ち、二年ほど前に心不全で亡くなっている。もちろん母親に前科はない。過失致死などの記録もない。

「お母さんが、お父さんを、殺したのですか?」
嶌村は丁寧に聞き返す。

近堂はくくくと笑いながら首を二度、縦に振る。
「首を絞めたんです。窒息です」
具体的な話は近堂のでまかせか、何かの記憶違いなのか。

「母は、いつもそうしてましたから」
「いつも?」

嶌村が思わず聞き返したとき、近堂のこみ上げる笑いはやっと止まったようだった。

「そう」
そう言うと表情筋がダラリと下がり、瞳から急に生気が失われる。
「いつもです」

近堂は眉根を寄せて何かを思い出そうとしているように見えた。少し目を細めて続きをゆっくり口にする。

「顔に。黒いマスクをして」
「マスク」
嶌村が繰り返す。

「ラバーの」
「ラバー?」
近堂は返事をせずに続ける。

「ホースを咥えて。首輪をつけられて。父は、裸で。そう。四つん這いに」

記録係の手が止まり、困惑したように嶌村と近堂の顔を交互に見る。嶌村は近堂の表情を探る。

近堂は少し楽しそうな表情に変わった。
「母は、嬉しそうに笑っています」
そう言って、くうを見つめたままにっこりと微笑んだ。

「ホースに空気を送り込んだり、空気を止めたり。父が呼吸をできるかどうか、それは母のコントロール次第です。母が、父の、命を握っているんです。命を。いつも。いつでも」
「いつも?」
「はい」
嶌村の声に近堂が正面から返事をした。

「私は、そうやって産まれました。母が、父を、コントロールして。その行為で私が産まれたの」

近堂の顔は嶌村を向いているが嶌村を見てはいない。僅かに声色が高くなり甘えたような、舌足らずのような喋り方になる。

「お母さんが、私に、おいでおいで、って。だから私も、真似するの。私も、コントロール、してみたの。お父さんは嬉しそうに体をブルブルッてさせて喜ぶの。うふふふ。苦しそうに。苦しそうで、嬉しそう。だから、もっともっと、って。それでね、それで――」
近堂はまるで少女のような声で、頬骨を大きくあげてニヤリと微笑んだ。

「うっかり、失敗しちゃったんじゃないかな」

嶌村は何も言わない。
近堂は急に真顔に戻り、低い声で呟く。

「最後は見ていないから分からないわ」

そのまま暫く石膏のように固まり、そして張りつめていた糸が突然プツリと切れたように両腕をだらりと弛緩させ、それ以上何も、喋らなかった。


「過去」へつづく ▶


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