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残夢【第一章】⑩不変

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俺は前崎文化センターという単語で先程の嶌村の話を思い出していた。

近堂が講師をしていた教室に娘が参加したことがあるかどうか。面倒だが早く妻に確認してしまおう。
近所の書道教室以外で教わったことがないと分かれば時期も場所も確認する必要はない。元妻にラインで要件を送った。

そもそも娘は人見知りが激しかった。知らない場所を好まない穂乃果が単発の習い事で集中できるとも思えない。離婚後は知らないが少なくとも別れるまでは、そうだった。

五分も待たないうちに元妻から電話がかかってきた。慌てて空いている打合せ室に移動して通話を受ける。

「ずいぶん久しぶりなのに変なこと聞くのね」
元妻の香穂里は開口一番そう言った。
「仕事中すまない」
「ううん。早番だからこれからちょうどお昼なの。電話の方が早いと思って。あのころ通っていたのは設楽先生、ほら、すぐ近くの」
「ああ、そうだ。設楽先生と言ってたな」

元妻の香穂里は離婚後、娘と共に埼玉の実家で暮らしている。結婚前に勤めていた会社の別店舗に再就職できたと言っていた。

大学時代に出会い、卒業間近にして付き合い始めた。お互い忙しい中で無理やり時間をやりくりして同じ時間を過ごした。自分のどこにその情熱があったのか今となっては不思議でならない。香穂里を誰にも取られたくない。そう思いながら付き合い数年が過ぎた。

異例の早さで女性主任になったと喜んだ直後に妊娠が発覚、入籍して一緒に暮らしはじめた。日本一混むと言われる路線での長時間通勤も、香穂里が身重でなければ問題なかったのかもしれない。

今は仕事よりも赤ちゃんの命を一番に考えたい。そして俺を支えたいと言って退職を決心した。育児休業を取得しても復帰して両立できる自信がないと珍しく気弱な事も言っていた。

すべて、香穂里の決めたことだった。

今は契約社員らしいが、たまに送られてくるメールからはやり甲斐を感じている様子が見られる。それで良かったんだ。最初から、それで。

「それで他の場所に習いに行ったことはないか。単発で、とか」
「無いけど、なんで?」
「いや、分かった。ありがとう」

理由を詳しく説明する必要はない。礼を言ってこの話を終わらせようとした。
「え、単発でって?」
「ああ、文化センターとか大きな会場で開催されたような。無いなら無いで構わない」
「文化センターかあ」
香穂里は何か考えだした。

無いなら無いでいいんだ。無いと言って話を終わらせてくれと心で願う。

「無くはないかな、そう言えば」
俺はため息をついた。
「二年以上前だ。離婚する前」
「そうね。習いたてのころ、逆に行ったことあったわ」
逆に、とはどういう意味か分からず微かに苛つく。
「前崎市の文化センターだ。行かないだろ」
「あー、そうそう。前崎の……え、文化センターだったかな」

俺は連絡したことを早くも後悔していた。中途半端に行った記憶があるなどという返答を聞くことになるとは思わなかった。

「前崎だったけど、そう。コンクールみたいなのと兼ねてたのが、うん。一回だけある」

懐かしい思い出話をするように明るい声で答えられ、肺の中に残っていた煙がいまさら黒く渦を巻く。

たとえ二人が行ったとして俺がその場所にいたという事実はない。だが人見知りの娘はともかく、香穂里が講師と何か話しをする可能性は大いにある。香穂里は初対面だとか上下関係だとかに無関係に他人と仲良くなることができる。元来そういう性格だ。子育てに悩んでいた一時期を除いては。

「その時の講師の名前は覚えてないか」
「講師? いやぁ。別に有名人とかではなかったと思うけど」
「何年前、いつだ」
「やだ、なに。何があったの?」

急に声色を変えて尋ねて来た。何かあったから聞いているに決まっているだろう。だが「言えない」とだけ答える。

「そうよね。分かってたけど。えっと、家に戻って日記でも見れば分かるかも」
「日記なんて書いていたのか」
「うん。泣きたくなっちゃうから見返したくないけど」
文句や愚痴を吐き出す相手が日記だったのだろうか。
「あ、でも、やだ。なんかちょっと思い出しちゃった」
「なんだ」
香穂里は少し申し訳なさそうな声で続けた。

「穂乃果が来て早々帰りたいって言い出して大騒ぎして」
「無理やり連れて行ったのか」
「違うわよ。でも、そうだ。思い出した。それで講師の助手みたいな人が宥めたり遊んだりしてくれてた。迷惑だったでしょうね」
「どんな講師だった」
「覚えてないわよ」
「思い出せ」
「いやよ」
香穂里は突然きっぱりと言った。

「あなた全然変わってないのね。どうして命令口調なの。私に尋問でもしてるつもり? それとも喧嘩したくて連絡してきたの?」
突然怒り出したような口調の香穂里に戸惑った。

喧嘩するつもりなんてある訳がない。気になることを確認したかった。早く片付けたかっただけだ。

そしてそれが終われば。

元気でやっているか。ここ二か月ほど穂乃果と会う約束を反故にされているが、次は会えるか? 学校はどうだ。楽しいか。困ったことはないか。

そんなつまらない言葉を伝えたくて気が急いていた、のかもしれない。それを自覚した自分にも腹が立ってきた。

「すまなかった。つい」
「まさか穂乃果に無理やり書道をやらせてたって思ってない? たしかに、ピアノとか体操とか、情緒を安定させようと必死になってたときもあったけどさ。それであなたと随分対立したけどさ」
「いや、それは」
「穂乃果がなんで自分から書道やるって言い出したかも知らないくせに」
 
なんだその言い方は。女は嫌味ったらしい言い方が本当に得意な生き物だ。香穂里か穂乃果が俺に伝えなければ俺は知らなくて当然だろう。知らないくせにという言い方で一歩上にでも立ったつもりか。
 
きちんと話そうとせずに自分の心の中に溜め込んで勝手にイライラし出す。香穂里はそういうところがあった。子育てに悩んでいた事に俺が気づかないのは申し訳なかったと思う。だが言ってくれなければ分からないことが山ほどある。
 
離婚して不満を溜め込まなくなったのは喜ぶべきことだが、こうやっていきなり思い出したように怒りをぶつけてくるのも勘弁して欲しい。
 
「悪かった。もしかしたらまた聞くかもしれない」 
俺は勝手に話を切り上げ「じゃあ」とだけ言って通話を終わらせた。

相手が目の前に居なければ、ただ懐かしがって、愛おしがって、今の自分なら失敗しないと悦に浸っていられる。
 
だが、なんだこのザマは。情けない。
「チッ」
無意識に舌打ちがでた。


「渇望」へつづく ▶


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