~学生新聞に見る北海学園七十年史(後編)~(10)〈創立百周年〉と「北の早稲田」の栄光 1986~1994
自らの生きる21世紀と長い「平成」と動乱の令和の世を憂い、金と人が愚奔していた「80年代」を愛する私の感情を吐露するならば、本学学生新聞が「面白かった」時期はこの頃だけである、とさえ思っている。
そこそこの高偏差値とどこか知性の漂う自虐、そして飛び交うネタの数々に、エッセンスとしての社会派記事――。新聞会初代会長は「再刊以来レベルダウンした[1]」と言ったそうだが、私はむしろ再刊後の約20年間が学生新聞の「全盛期」であったと信じてやまない。
過ぎ去りし時代を惜しみながらも、栄光の時代が確かに内包していた私たちの生きる、このけったくそ悪い「21世紀」の芽を探していこうではないか。
1980年代の日本では私大人気が高まりつつあり、本学もその恩恵にあずかったのだが、その原因は1979年の大学入試制度改革にある。それまで国立大学は入試において「一期校」と「二期校」に大分されていた。一期校は主に「旧帝大」など国立大の中でも特に難関とされる大学が多く、二期校には戦後誕生した大学が多かった。そして入試は一期校のもの(ちなみに一発勝負タイプ)の後に二期校のものを実施していたため、二期校を一期校の滑り止めにする受験生が多かった。さらに当時の国立大学は私立大学に比べ格段に安かったため、国立大の人気は現代よりも高かった。「早慶MARCH」というような言葉のなかった時代の話である。
しかし当時の国立大学入試は難問奇問が多かったため問題視され、結果的に「共通一次試験」制度が導入された。後のセンター試験、共通テストである。これによってこれまでのような一期校と二期校の併願が不可能となったため、私立大学が有利となったのだ。
(本学がおおっぴらに「北の早稲田[2]」と呼ばれるようになったのもこの頃[3])
この頃になって本学はようやく札幌の地に静修女子短大や札大といった「身近な他者」を(一時的にとはいえ)獲得したと言えるだろう。官学(北大)対私学(学園大)という抽象的かつ、多くの分野において「優劣」の明らかな関係性や総合定期戦に負け続けることで結ばれる関係性とも異なる「都市私大」群の中で、「バンカラ気質の古豪」然とすることの出来た、文化的に成熟した時代が訪れたのだ。この時代に頻出する「最狭大学」という自虐の中にも「古い歴史と伝統の代償としての“狭さ”」を受け入れていたような、心の広さを感じずにいられない。
●高校と大学の分離
大学の創立当初、本学の学生数の7割程度が北海・札商出身者で占められていたという。当時の学園大の知名度の低さを思えば納得はいく。
そのため校舎建設のため「学園債」を発行したり、その恩に報いるためか新聞会は校舎完成後の特集号では「浅羽イズム」の継承を促してみたり野呂を褒め称えたりしていたようだ。学生歌の作詞者吉本直之(経済学部3期)は北海高校出身であったし、その他三期生の主要メンバーにも北海・札商出身者は多い。
しかし、学生運動華やかなりし頃になると、いよいよ高校と大学の「七年制」化やエレベーター化に反対するようになる。やはりマスプロ化の時代に地方から本学に入学する人にとって北海・札商がために自分達の学習・厚生設備の建設を遅れさせるなどありえない、ということだったのだろう。
実際に(全新入生の氏名・出身校名が『学生新聞』紙面に明記された数少ない例である)1968年度本学入学生(Ⅰ部)に占める北海・札商の割合はそれぞれ経済学部が約20.5%、法学部が約13.6%、工学部が約13.6%となっており、マスプロ化は確かに本学を創立期とは全く違う風景として塗り替えてしまったようだ。そんな時代にマスプロ化に反対し、教師と学生の人格的交流を志向し学生運動を指導した人たちはしかし、北海・札商の伝統を重んじ“身体的な”成長を志向する運動部・応援団指導部と対決し、全国に強力な指導力を及ぼす民青に従う人たちであった。ある時代における潮流に反対し、その代案を実現しようとする人たちは得てしてその潮流を前提とする特徴をいくつか備え、それどころか時にはかえってその潮流を助長してしまうことすらある。当時の本学における民青系学生運動指導部がどうしてそうでなかったなどと言えるのだろうか。
●教養と「闘う男たち」と来たるべき「おたく」の時代
しかし、上記のような“皮肉”なことは時によい方向にはたらくこともあるだろう。私はその事例として昭和末期の気づかれざる「教養時代」を挙げたい。昭和40年代の大学紛争の嵐が過ぎ去った後のキャンパスは「シラケの世代」や(少し後には)「新人類」と呼ばれる世代が溢れた。彼らはいわゆる「全共闘世代」とは違い4割近い大学・短大進学率を達成し、「日本社会のエリート」と「マスプロ教育下のサラリーマン予備軍」との間でアイデンティティが揺らぐことも(あまり)なく、大衆教養層とでも呼ぶべき層と大学進学者が概ね合致する「幸福」な時代[4]を生きていた。
敢えて大胆に、(竹内洋『教養主義の没落』などに見られる「大正教養主義」「昭和初期に教養化したマルクス主義」といったノスタルジックな図式に反して)「教養主義の時代」を「教養(昭和末期ならなんとなく、アカデミックな書籍に音楽に映画に、いっそプロレスや『テレビ的教養』の象徴であるプロ野球などを加えてしまってよい)がファッションとして機能していた時代」と定義するのならば、浅田彰のあの『構造と力』が15万部も売れ、「ニューアカデミズム(ニューアカ)」が流行っていた昭和末期は(世間のイメージに反して)立派な「教養主義の時代」と言えるだろう。
そう大言してみてから原稿を3週間ほど放置してから気がついたのだが、やはりその「教養時代」において、決して多くの学生が「教養」を目指した“積極的”な時代ではなく、かつて「教養」家たちの前に立ちはだかった人たち、それは生活知だとか現場知だとか、長幼の序だとかを振りかざして大学における「勉強」を蔑んでいた「生活者」たちが高度資本主義下で自信を喪失したが故の“消極的”なものではなかったのだろうか。
この時代は全てが「学校化」した時期でもあった。高度成長期のベタな光景のように、路上に空き地に勝手気ままに遊ぶ(そしてたまに死ぬ)子どもはやがて、学校のない時間もまた別の学校(塾や予備校)に通うようになり、親の仕事を手伝うこともかなり少なくなった。
そんな時代には「知」は生活上の経験に基づかない「情報」となり、学校教育上の「正解」をのみ追求する子どものように「情報」の量をのみ追求する「おたく」の時代の下地となる。
やがて来たるその時代において「教養」とは自らの指針として参照するためのものではなく、内輪で楽しむためのネタのデータベースとほぼ同義の概念だと思われるようになるだろう。
そんな過渡期の北海学園大学に「教養時代」を象徴するような団体があった。
プロレス研究同好会である。
彼らの活動について、現代から直接知る機会はなく、機関誌「闘う男たち」を入手することも叶わなかったが、当時の新聞報道にはそれなりに登場していたので、追う。
「機関誌「闘う男たち」は年三回発行している。「創立三周年記念号」の十号はイラスト、写真たっぷりの手がきオフセット印刷、B5判で堂々百三十四㌻のボリュームだ。定価四百円。三百部作って市内の書店に置いているほか、通信販売までしている。十号を開くとまずプロ研の歴史が登場。(中略)ひっそり作ったプロ研も、今や女子部員三人を含む三十人の会に成長した流れがわかる。(中略)ステンレス小山君による論文「弁証法的プロレス論」六㌻にわたり(中略)構成している。教養セミナー「技の力学的考察」は物理の公式なんか混じった連載。ロンスター菅原君の「ファイト診断―レスラー勤務評定」はなかなか厳しい“人事考査”だ。新入部員たちの文章も勢ぞろい。(中略)プロ研の活動はこの機関誌作りのほか、週一回のミーティング、札幌にプロレスが来たときは欠かさず団体観戦に行き、ときには東京遠征も。東京の大学では実技を中心にしたプロ研が多いそうだが「ぼくたちは観戦に徹します」ときっぱり。」
(『キャンパス通信 プロレスにしびれる 北海学園大観戦愛好会』北海道新聞1982年8月8日付朝刊第29面より)
実に精力的なサークルだろう。この時期の本学には文学会、広告研究会(道新に広告記事[5]が掲載されたこともある)、会計研究会、法研究会などが機関誌を発行していた。
このように、かつてサークル活動というのは、敢えて社会派やNPOにボランティアを気取らずとも、社会を向いていたものらしい。こうした「規律/訓練」型時代の大学像を支持するための中間団体はやがて衰弱することになる。
その徴候はこれまでに挙げた機関誌群の中に既に見られる。ここでは1980年4月19日に定価3700円で文学会・翼・グループ(BWG)から発行された『不思議な世界3』を埋め尽くした『BATTLE2273』を見てみよう。萩野氏の手によるこの作品は、タイトルからも察せられるように未来宇宙戦争SFなのだが、内容自体について触れる気はない。問題はイラストだ。
これは、ロボットものに疎い私でも『機動戦士ガンダム』のキャラ(セイラ・マスというらしい)そのものではないか、と判ってしまう一品だ。この同人誌(敢えてそう呼ぼう)において既に一次創作と(おたく的)二次創作の境界は曖昧になりつつある。
1975年に第1回が開催されたコミック・マーケット(コミケ)は、当初「純文学風マンガ創作[6]」を志す者が多かったのが、ほんの数年で現在のような広義の二次創作、既存作品のパロディが溢れるようになったという。
1980年にはまだ文学会という枠に収まっていた彼らのような「おたく」的学生はやがてサークルは介さずコミケに出るようになり、2000年代には直接グローバルなインターネット上に作品を投げかけるようになるだろう。
そのような時代であっても、同類たちと集い、楽しみ、研鑽しあい肯定しあい、時に否定しあうサークルという枠組みは無効ではないだろう。だが、39年後の文学会では機関誌について、作品を投稿するという行為は取りあえず「作品を投稿した」という“実績解除”をそれらしく演出するための権威を機能としてもたせていた節がある。誰に聞いた訳でもないのに外部に部誌を出して研鑽しようと言った私に対して、当時の編集長は「世に出さないから書ける人もいる」と諭したのだ。既に機関誌の内輪向けとしてのみ、あるいは体育会の「北翼」のように完全な伝統して、ノルマとしてのみ発行されるようになっていたのだ。
だからといって、インターネット上に機関誌を投稿しようというサークルなど、2020年から2022年まで『幌都令聞』を7号発行した地歴郷土研究会Gohekn(現地理研究会)くらいなもので、そしてその文章のほとんどは私が執筆していたのだから、この問題意識はきっと、あと10年くらいは私限りのものなのだろう。
[1] 『学報』第52号(2003年7月15日付)内「北海学園大学草創記9 三森教授と大学新聞」より。本文より抜粋。「新聞の一面下のコラムを「晴好雨奇」と名付けたのも三森先生である。創刊号のこのコラムを書いたのも先生だが、文末に次のように書いている。〈題名の「晴好雨奇」は蘇載の七絶からとった。晴れても降っても洞庭湖の眺めは美しくそれは丁度、化粧の有無にかかわらず美しい西施とくらべられるという詩の文句からとったのである。〉いい命名だと思った。このコラム名が「豊平気質」に変えられたのが、昭和52年7月8日付の再刊第1号からである。改悪といってよい。「北海学園大学新聞」は再刊以来レベルダウンした。」
[2] 私個人としては「北の早稲田」の通称に相応しいのは須貝富安(現在のスガイディノスの二代目社長)ら早大OBを中心に設立された札幌文科専門学院に源流を発し、現在でもスポーツに力を入れている札幌学院大学ではないかと考えている。
[3]
[4] 與那覇潤『平成史 昨日の世界のすべて』(2021年・文藝春秋)より。「…「昭和50年代」が始まる1975年までに、高校は進学率が91.9%へと伸びておおむね皆学化し、大学・短大への進学率も37.7%まで上昇。これらの水準はともに、平成初期の1990年までほぼ変わりません。高度成長期と平成の不況期をつなぐ「低成長期」とも呼ばれる昭和の最末期は、高学歴化の定着を背景に「教養層」と「大衆層」の幅広い一致が生じた点でも、安定した時代でした。」
[5] 『広告制作にチャレンジ 学生がつくった新聞広告』北海道新聞1985年10月19日付夕刊第3面より
[6] 浅羽通明『天使の王国 平成の精神史的起源』(1997年・幻冬舎)より
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