【小説】『万華鏡ロジック』 四話



 日が落ち始め、あたりは薄暗くなりかけていた。
 待ち合わせは馨と二人で訪れたことのある喫茶店。二日前に紹介したい人がいると馨からそう告げられ、その相手がどんな人物なのか詳しく聞く間もなく彼女は帰っていった。あの時の彼女は少し笑っていたような気がする。
 人通りの多い繁華街をぬけて静かに建物の影に隠れたところにその喫茶店はある。目的地についた僕はドアを押した。頭上でカランカランとベルの音が鳴り響く店内に足を運んだ。モダンで落ち着いた内装にオレンジ色の光に包まれた店内には三人の客がいたが、一人は女性、中年と見られる男性二人だった。馨がいる気配はない。店を間違えている訳ではない、普段の彼女から考えて時間を守らないなんてことは考えられないが、急なアクシデントで遅れてくることもあるんだろうという考えに至った僕は適当な席で座って待っている事にした。静かな窓辺の席を選び、いつも頼んでいたコーヒーを一つ頼んで窓越しに外の行き交う人々の群れを眺めた。馨とこの店に来ると、いつも決まって僕たちはコーヒーを一つずつ頼んだ。馨は甘いものが好きで必ずデザートのアイスクリームを食べていたが、コーヒーはいつも砂糖やミルクを入れずにブラックを飲んでいた。そして何より馨は常人より突出して嗅覚が鋭かった。コーヒーの匂いから豆の種類、同じ豆であっても焙煎の違いまで味を確かめずに匂いだけですぐに分かってしまうのだ。さらに馨と接する内にわかったのは恐らく彼女は共感覚なのだろう、匂いに対して色や形が見えているらしかった。加えて勘が鋭い、まるで僕の精神や本質まで嗅ぎ取られているような感覚すらあった。

「すみません! 辻村伊佐治さんですか?」

 ふと窓から視線を外して横を見ると。……大学生くらいだろうか、フェミニンなワンピースを着た若い女性が立っていた。自分に心あたりはないが、どこかで会った事があれば相手に失礼だろうと思い、とっさに返事をした。

「ええ、僕が……辻村ですが」

 辻村のその言葉を聞いた女性は「ああーよかった」と声を出し安堵した。

「初めまして、ユマです。四葩さんから、紹介したい人がいるっていう話は聞いていますよね」
 四葩とは曲直瀬馨の雅号である。彼女と面識がある事から察するに、この女性は馨の言った紹介したい人なのだろうか。
「伊佐治さん、私、ずっとあなたと会ってみたかったんです」
「えっと、ちょっと、説明を……馨はどこに……」
「詳しい説明は私に任せると言って帰りました」
「なんだって!?」
 馨がどうして僕をこの女性にあわせようとしたのか、意図がわからない。
「貴女は……ひょっとして、僕の作品のファンか、なにかかな」
「違いますよ。私は彫刻自体にはそこまで興味がないので、どちらかと言うと四葩さんの絵のほうがステキだと思っています」

 あっさりと否定されて少し複雑な気分になる。

「じゃあ、何故、僕に会おうと?」
「実は私……小さい頃に身体障害者のドキュメンタリー番組を見たことがあって、私は初めて腕のない人を見たんです。そのときに私は自分もこんな風になりたい――っていう強い思いにかられました」

 強い思いに駆られた――それは少しだけ自分に似ていると思った。しかし、話を聞く限りではきっとこの女性は身体完全同一性障害なのだろう。

「誰も理解してくれなかった……。だれかに相談しても、表面ではやさしい言葉をかけてくれても……結局はみんな私を異常者扱いしているだけで私と向き合うつもりなんて最初からないんです」

 人なんてそんなものだ、他人の痛みなんて分かりっこない。結局はなにもかも自分で背負うしかないんだ。

「私の腕が自分のからだの一部だとはどうしても思えなくて、斬ろうとしたことがあって、両親にカウンセリングに連れて行かれました。私は治ったフリをして、そこへ通わなくなって……両親とは距離を置きました。それで私は馨さんと知り合ったんです。……あの人だけは違いました……」

 突然、ユマが顔を覗き込んだ。その視線が伊佐次を強く捉え彼女は言葉を紡いだ。

「伊佐治さんもそうよね」
「……なにがだ?」
「伊佐治さんは、ふつうの女の人を愛せないのでしょう――」

 伊佐治はグッと息がつまった。だが次に続くユマの言葉で今度こそ彼は奈落に落とされた。

「――それに五日前にニュースで報道されてた、女の人が刃物で切りつけられた事件……」

 手を組んでそこに顎を乗せ、少し上目遣いでユマはそう言った。まだ手つかずのコーヒーが少し温度を失っていた。

「四葩さんが話してくれました。あの人は気づいていましたよ。……伊佐治さんがどういう人なのか、わかったうえでずっとそばにいたみたいですよ」

 頭蓋骨がガラスのように砕け散るような衝撃だった。
 父から母を殺害した事を告白された日のような恐怖と冷たい感覚が体を巡った。いつからだ、いつから、僕の行為はカオルに知られていたんだろう。

「伊佐治さん。そんな顔しないで」

 いまにも死にそうな青ざめた顔をしていた彼を心配して、厭うようにユマは彼の掌に自分の掌を重ねた。

「私も四葩さんも別に伊佐治さんのことを非難するつもりはないんです。だって、背負い続けることはつらいでしょう――」
「黙れ……お前になにが分かる」

 睨みつけた伊佐治の地を這うような低い声は怒りを帯びていた。
 ――ああ、くそッ……頭がぐちゃぐちゃになる……もう嫌だ。

「お前の言う通り、僕は辛いさ。……でも常識という名のレールから外れている僕たちが大勢と群れたところで孤独なんて埋まるもんか」
「そうですよ、だから伊佐治さん。私のことを受け入れてくれませんか? そのために四葩さんは私を紹介したんですから。私の願望を叶えてください」
「本気なのか?」

 この女はつまり、今日あったばかりの伊佐治に腕を切り落とされたいと言っているのだ。伊佐治ですら彼女の精神を疑ってしまうのもムリのない事である。

「世間からは許されないぞ!」
「なにが許されないんですか? 私たちはおかしくないのに? 同性愛とかそういうのだって少し昔までは医学書に書いてあるレベルで精神疾患として扱われてたんですよ。常識なんてそんなもんじゃない」
「でも僕は、お前とは違うんだ!」
 伊佐治は思わずテーブルをダンッと強く叩いた。
 店員が視線を向けながらヒソヒソと何か話している。怪しまれたのかも知れない。おもむろに掌で顔を覆い隠す。体が脱力してテーブルにへばりついて項垂れた。そして、伊佐次はごめん、ごめん、と濡れた声で譫言のようにくりかえす。
「……と、ご……し、なんだ、ち、ちちは……」
 伊佐治はもう止まらなかった。彼はもう限界だったのだ。俯いてテーブルを凝視したまま口を動かせる。

「ぼくの……父は人殺しなんだ……」

 ――もうどうでもいい。

「――殺したんだ、ははを……」

「そっか。辛かったね」

 ユマは啜り泣いている彼の頬をそっと撫でた。

「話してくれてありがとう」そう告げたマユに対して辻村は思った。
 どうしてだ……目の前にいる男が実父が母親を殺したと告白しているのに何故、そんな反応でいられるのだろう。こんなことを告白されたら普通の人なら僕を警戒しているような態度を示すのかも知れない、でもマユは事実を話した僕に対しての恐れや緊張はなく素で接してくれている気すらした。ただ、自分がそう思いたいだけなのかも知れない。そう思うことで少しは救われる。

「伊佐治さん、答えなんて存在しないから私たち二人が正しいと思っていたらいいんだよって四葩さんは言っていたわ。私は私のことも、伊佐次さんのことも間違っているとは思っていないもの」
「……はは」

 彼女をみていると何故か気の抜けた笑いがもれた。
 なんだか、全てバカらしく思えた。
 人生はどう転ぶのか分からない。祖母と母と父が死ぬ以前の無知な幼い頃の自分はどんな夢を持っていたのか覚えていない。少なくとも今のような生き方をしているなんて考えもしなかった。社会のレールから外れているなんて、そんなのは今更だった。

 人なんてものは信じていない。僕の本性を知れば攻撃してもいい存在として認識する。でも僕がこの結論に至ってしまったのは、きっと今、僕が自暴自棄に陥ってしまっているからなのかも知れない。だから大勢の人間がこの行為と関係を狂っていると、共依存だと思っていようとも今の僕は構わないと思えるのだろう。
 ――けれど、それでいい。
 僕らは可笑しくない。間違っていない。
 今はそれでいい。

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