自意識について
現代詩研究という授業があって、個人的にはそれが今一番アツい授業なわけであるが。
講義の進み方としては一週目に一人の詩人について講義を聞き、授業中にレポートを書きそのレポートについて次週討議するというもの。
この討議が面白いんだこれが。
生徒と先生が真剣に侃侃諤諤の議論を繰り広げる訳だが、本当に興味深い議題ばかりで飽きがこない。
全てを書くとキリがないので、中でも印象に残ったものを一つ。
その週はボードレールを扱ったのだけど、音楽学科4年の女生徒の発言。
「ボードレールが主人公過ぎてムカつく。
現代の男で言うところの、エヴァの見過ぎ。
自分の言動で世界が変わると思ってるなんて自意識過剰。」
成程面白い。
これは女性からしか出てこない意見だ。
畢竟碇シンジもthe cabsも、ドストエフスキーの「地下室の手記」の小官吏も全ては自意識の肥大化によって生じた苦しみである。
自意識の問題についてはずっと考えてる事ではあるのだが、非常に難しい問題だと思う。
確か「地下室の手記」でも自意識というものは現代の病理だと書いてあったと思うが、自意識というのはあらゆるものを要求する。
そしてその要求に応えられなかった時、人は懊悩し終いには犯罪まで犯してしまうのではないかと思う。
そしてその対象は概して男性である。
依然として、世の中は男性社会である。
それは女性にとって不自由であり是正されるべきだが、ある側面から見れば男性にとって不都合な社会でもある。
自意識の要求の中には「社会から必要とされる、社会的に貢献する男性となるべき」という要求も含まれており、その要求に応えられなかった男性は社会から断絶せられ、酷く劣等感に苛まれることになる。
そしてこの劣等感を克服する過程の中で、自意識を肥大化させたり通常とは違う形で自意識を歪ませたりし、更に社会への適応を難しくさせてしまう事があると私は考える。
加えて男性には強い性衝動或いは攻撃性があり、それを解消する為に取らなければならない手段も重要だ。
自慰行為で済ませるのか、趣味にエネルギーを注ぐのか、芸術に昇華させるのか、空想の世界に逃げ込むのか、暴力で発散するのか、そういうお店に行くのか。
この選択の中で、最悪な選択が性犯罪だと思う。
行き場の無い自意識と性衝動の中でどう社会と折り合いをつけていくのか、これは深い問題だと考える。
大学の授業で「雄呂血」という映画を観た。
この映画は社会から疎外された男がそれでも自身の信念を貫き通すが、最終的には人を殺してしまい、人々から蛇だ鬼だと謗られる暗い話だった。
活動弁士の人はこう言っていた(活動弁士についての説明はここでは省く)、
「あまりに重く救いようがない内容である為、長らく封印していたが秋葉原連続通り魔事件や京アニ放火事件が起き、もう封印しきれなくなった。」
私はその時ちょうど中村文則の「私の消滅」という本を読んでいた。
この本では宮崎勤について言及しており、この映画の内容ともリンクするなと私は感じた。
社会から理解されず、自意識を持て余した男の行き着く先は犯罪行為しかないのか。
そんな疑問が私の心を渦巻き、私は吐き気がした。
時代は男女平等と謳ってはいるが、性差は確実にあると思う。
自由恋愛市場においては、明らかに男性の方が女性よりも恋人を作ることが難しく、市場から溢れた男性は性的欲求不満と劣等感を抱えることになる。
そんな状況で醸成された欲望は、歪んだ趣向や歪んだ価値観を生み出す。
この国(他の国でもあまり大差はないと思うが)で男性の犯罪率が圧倒的に高いのはこういった背景があるからだと私は考える。
「弱者男性」だとか「チー牛」だとか社会的に弱い立場の男性を揶揄する言葉は多数あるが、そう言われてヘラヘラできるうちはまだ良い。
しかしそういった男性の自尊心の糸がプツッと切れた時、暴発するなにかを塞ぐ術を私達は持ち合わせていない。
社会と自己との間で自己同一性を確立する作業というのは近代以降の人類にとって重大な課題となったわけだが、その解答は個人個人によって違う。
答えが見つからずとも、我々は社会と折り合いをつけていかなければならない。
然もなくば法を犯し、枷を背負い生きてゆくしかない。
人生とは斯くも難しきものなのか、、、
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