漫画「BLACK」を読んで

ジャンプ+にてBLACKという漫画を読んだ。

まずこの作品は怪作と言って差し支えないだろう。

本当に色々な事を考えさせられる漫画だったのだが、まず私が思った事をおおまかにまとめる。

・1984年的権力構造
・能力主義の残酷さ
・自尊心の剥奪と恐怖支配
・過労による思考停止
・悲観主義が称揚されるSNS
・暴力(自死を含む)により行われる変革

ここから先は読者諸賢が本作を読んでる事を前提で話を進める。

まず一つ目の1984年的権力構造であるが、ジョージオーウェルの1984年では「戦争」というものを人々に物資の生産と消費をさせる事により余剰な資産を持たせず、さらには戦争の勝利を最大の喜びと感じるように洗脳し党への忠愛を深めさせるという役割を担っていた。

そしてBLACKではあらゆる産業を担うHOPEという会社が、従業員に肉体的な限界を超えた労働を強制する事により過労死もしくは自死させ、その結果として「怪物」を生み出し、それをHOPEの機械が倒すことによりHOPEを神格化する。

どちらもマッチポンプな権力維持体制を築いており、更に生活の基盤を支えている為、二つの権力はほとんど個人の力では覆すことが出来なくなっている。

2つ目の能力主義であるが、主人公と同い年であり主人公の幼少期からの夢であるHOPEパイロットの白鳥光は、主人公の境遇を全く顧みず、剰え弱い存在であると軽蔑し、「夢は必ず叶う」と嘯く傲慢極まりない人物として描かれている。

これは物事の綺麗な側面しか見せない虚飾に塗れたメディアと同じだ。

特にテレビなんかでは芸能人の非現実的で理想的な生活を見せ、人々の夢と欲望、そして強者への信仰を肥大させる。

強者は絶対に弱者を踏み躙ってはならない。

弱者を慮り、手を差し伸べなければならないのだ。

そうでなければ必ず生まれるだろう。

BLACKが。

言うまでもなく、ここ日本でもすでに多くのBLACKが生まれてしまっている。

ここで言うBLACKとはつまり『無敵の人』の事だ。

コメント欄でBLACKは山上や植松だという意見があった。

しかしそれは違うと思う。

(これは私のあくまでも私の認識であるが)山上には知性があり、植松には思想があった。

この点で無敵の人とは違う。

BLACKを例えるのならば、秋葉原通り魔事件の加藤だろう。

逃げ場もなく虐げられ、誰からも歓迎されず、社会への鬱憤を募らせ続けた者の殺人。

慄然とする程恐ろしい殺人が、この国で起きているのだ。

まだ革命の方がマシだ。

『無敵の人』の殺人は言わば復讐であり、目的を伴わない無差別の殺人だからだ。

前述した通り、これ以上強者が弱者を虐げるような社会が続けば、無差別殺人はこれからも起こるだろう。

ああそうそう、mouse on the keysが音楽をやると言う事で普段見ないドラマを見た。

「ラストマン」という作品なのだが、私は1話の最後で非常に違和感を感じたのだ。

主人公の捜査官は自分をいじめた相手を殺そうとした犯人に、捕まえた後(うろ覚えだが)
「私は今まで多くの人に助けられて生きてきました。生きる価値のない人間なんていないのです。あなたを助けてくれる人間が必ずいるはずです。」
と言ったのだ。

私は「バカじゃねえのか」と思った。

助けてくれる人間が現れなかったから犯罪まで起こしたんじゃないか!

犯罪を起こした後にそれを言ってどうするよ。

当然救世主が現れる可能性はある。

だが現れなかったらどうする?

殺人か、自死しか選択肢はないのか?

救世主を望む前に、救世主を必要としない社会を形成するべきではないのか?

そのセリフを言った後捜査官は言ったんだ。

「あの言葉は犯人にではなくテレビの前の人々に言ったのです。
日本人はこういうの好きでしょう?」と。

感動ポルノでオナニーできるのは白痴だけだ。

あまり日本人を舐めないでもらいたい。

やってしまった後に助けを告げるというその錯誤性に我々が気づかないとでも思うか?

Mouse on the keys関連で言うと2週間前もドラマの劇版をやっていて、それは「詐欺の子」という作品だったのだけど、これもまた暗い作品だった。

中でも印象に残ったのは、後述する恐怖支配と前述した能力主義についてだ。

この作品は詐欺に加担する青少年の実態を克明に描いた作品なのだが、まずこの詐欺グループの構造が階級式である。

それは上の者が下の者を恐怖で支配し、支配された者は自分より下の者をやはり恐怖で支配するという構図。

これはこの世の真理であり、最も醜悪な人間の側面だ。

そしてBLACKにも描かれている。

主人公にパワハラする上司、彼はいつでも笑顔のキャラとして描かれている。

しかしその張り付いたような笑顔も、阿諛追従してきた結果だろう。

結局のところ、人を支配する手取り早い手段は恐怖であり、この恐怖が人を捕縛し、雁字搦めにするのだ。

BLACKでは主人公が上司に
「お前は何もできない消耗品なんだから、死ぬまで働けばいいんだよ。
ここ以外で生きていけるわけないだろ。」と言われるシーンがある。

これを言われた者は自尊心という名の翼を捥ぎ取られ、二度と飛び立つ事ができなくなる。

これは現実世界のどこにでも見られる光景でもある。

例えば「お前なんかに〜大学いけるわけないだろ」とか。
   「〜になれるわけないじゃん」とか。
   「お前に〜は釣り合わねえよ」とか。

こういう何気ない言葉達が人の自尊心を殺し、その人の挑戦をも殺すのだ。

言葉が可能性を摘み、人を不幸たらしめるという事を、私達はもっと意識しなければならない。

これが三つ目の自尊心の剥奪と恐怖支配についてだ。

次に「詐欺の子」での能力主義の描写について。

長年詐欺をしてきたのだが、親に諭され出頭した主人公大輔の最後のセリフが胸に残る。

裁判での尋問の場において、大輔はこう聞かれる
「あなたのような境遇でも立派に働いてる人はたくさんいます。
あなたが犯罪に走ったのはあなたが努力を怠ったせいですよね?」と。

大輔は答える
「お前らなんかにはわかんねえだろ。
まともに働いたら報われると思って真面目に働く。
それが出来ねえ人間なんて腐るほどいんだよ。
だから詐欺が無くならねえんだろ。」

私はこのシーンで涙してしまった。

大輔の家は貧困で大学にも行けず、中卒で働いたところでろくな企業には就けず、派遣で肉体労働をしたところで将来なんてない。

こんな境遇で、「頑張らなかったあなたが悪い」なんて誰が言えるだろうか?

努力すりゃ未来を変えられる人と、努力しても変えられない人がいる。

もし前者が何か失敗をして、それを社会のせいにするなら甘えだ。

だが後者は失敗することすらできず、何も選択肢を与えられない。

生きるために働き、生きるために食う。

死ぬまでそれだけの生活。

こんな人生で善悪もクソもあるものか。

どう足掻いても人生を変えられない人々がいる限り、犯罪が無くなる事は永遠にないだろう。

BLACKに話を戻そう。

四つ目の過労による思考停止だが、まず人は働きすぎると、休息を求めることだけを考えるようになる。

作中でもあったように、「今はもうただ寝たい」という境地に至ってしまえば、これからの将来を設計する余裕も無くなってしまう。

仕事がある日は仕事をし、仕事がない日は寝る。

これが人間と言えようか?

欲望を捨て、未来を捨て、ただ彼らは安楽のみを望むのだ。

ソクラテスは言った

「生きるために食べよ、生きるために食べるな」と。

これは至言である。

働く為に生きていては本末転倒。

まあ仕事が楽しくて仕方がないのなら何も言う事はないが、大抵の場合そうではない。

特に日本人は、仕事から解放されるべきなのだ。

責任感が強いのは国民性であるが、その責任感に自分自身を殺されては世話がない。

五番目の悲観主義が称揚されるSNSについてだが、作中では主人公がSNSにてポジティブな言葉を呟いていた時は誰にも見られなかった。

しかしネガティブな言葉を呟いた途端にバズったのだ。

つまり人々は希望など求めていなく、ただ共感を求めている。

言ってしまえば、「傷の舐め合い」である。

悪い事柄の方が波及力が凄まじいというのは、これまたこの世の真理である。
(まあそうしなければ人間という種は生きてこれなかったというのもあるが)

しかしことSNSに関しては顕著であって、皆ポジティブな情報よりネガティブな情報を欲している。

そして不幸な人間は自分だけではないと、安心するのだ。

もうやめないか?不幸自慢は。

そいつがくれるのは一時の安心だけだ。

現実は何も変わらない。

そして敢えて言おう。

現実は変えられると。

理性では変えられないと思っていても、それでも変えられると言わなければならない。

何故なら「変えられない」という言葉が、更に未来を狭めるからだ。

「夢は必ず叶う!!」などという下らない大言壮語は必要ない。

私たちに必要なのは少しの勇気と、少しの自尊心だ。

六番目の暴力により行われる変革だが、改めて考えると暴力以外で社会が変わった事など、歴史上にほとんどなかったではないか?

暴力を嘆いても仕方がないのかもしれない。

何故ならそれは社会が必要とした暴力なのだから。

おそらく何十年にも渡る見て見ぬ振りが、この不安定な社会を生み出したのだと思う。

この社会は薄氷のようである。

いつ崩壊するか分からず、そして誰もが脱落する可能性を持っている。


そして落ちた先に、蜘蛛の糸は垂れてはいないのだ。

「落ちたのは自分のせいだ」と断じ、蓋をする。

これは何も為政者の事を言っているのではない。

私たちが作ったのだ。

私たちがこの社会を生み出し、それに付随する落伍者も同時に生み出してしまったのだ。

全ては不寛容の為に。

弱者を排除し、完璧な社会を形成しようとした結果がこのざまだ。

ここで最後に私の考えを表明しよう。

人は人を切り捨ててはならない。

絶対に。

そしてどんなに弱い存在でも見下してはならない。

私は全くキリスト教徒ではないのだが、「隣人を愛せ」とはとても大事な言葉だと思う。

人の不幸を共感や憐憫で済ませるのではなく、そうすれば解決できるのかを模索するのだ。

そうすれば、少しは平和になるだろう。

なるといい。

ここまで読んでくれてありがとう。

4000文字以上の文章を書いたのはこれが初めてだ。

それほど自分の中で言いたいことが溜まっていたのだと思う。

少しでもこの世界が良くなることを、私は願い続けている。

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