見出し画像

なぜ日本は “戦争” という道を選んだのか

今回は、4,900字を超える長文となります。
また、かなりマニアックな分野になりますので、ご興味のある方のみお読みください😊



戦後の歴史教科書には、“侵略戦争”なる用語がこれでもか、とばかりに掲載されています。

昭和生まれの世代は、イヤと言うほど「戦争は残酷だ」「戦争はもうしません」「日本は間違った選択をした」などの言葉を公教育の場で刷り込まれてきました。


1.データで分析された対米戦


ここにひとつの疑問点が浮かぶのです。本当に日本は間違えた道を選んだのかと。

確かに、戦争という選択肢を選んだことにより、多くの人々がお亡くなりになり、国家は壊滅状態になりました。

復興するために、敵国であったはずのアメリカに全面支援を受け、属国としての再出発を余儀なくされました。

結果論としては、戦争は間違えだったのでしょう。

しかし、当時の国家指導者は、なぜ日米開戦に踏み切ったのか。

ここに疑問を覚えた私は、様々な文献を読み漁りました。

その途上、とある一冊の本に出会うのです。

すベストセラーですので、ご存じの方もいらっしゃるかと思います。

簡単に述べますと、開戦直前に、政府が設置したシンクタンクが、日米戦争についてシミュレーションしたところ、100%に近い数字で“敗北”の結果が出たということです。

当然このシンクタンクは、この結果を政府に奏上します。その後の展開は、みなさんご存知の通り。

「データでは戦争はできない」という上層部の判断があったとのこと。

それ以外にも、官僚の組織的欠陥などにも触れられてますので、読まれてない方はぜひ。

考えてみれば、日清・日露戦争なんかも、データとしては、勝てる見込みはまったくありませんでした。

しかし、諸事情により、奇跡的な勝利を獲得しました。この奇跡を、当時の日本人は「日本精神」と呼称し、高らかに宣伝したのです。

この事実だけをみるならば、当時の日本人は、合理的な判断ができなかったのではないか、という憶測すら覚えるわけです。

2.近代史から紐解く“戦争”

次にこの本を取り上げます。

この本の特徴としまして、戦争の原因を日清戦争まで遡った点です。

歴史の教科書で、自由民権運動という用語が、明治時代の項目に載せられていますが、実はこれ、「民」権とうたいつつ国民を前提とはしていません。

彼らのおこなった「国会開設請願運動」とは、薩長藩閥=官僚に対抗するための、反薩長派による権力闘争だったのです。

著者の加藤氏いわく、「民」権派は、薩長藩閥=官僚に対抗するために、戦争を推進したのだと。そう、彼らは「国」権の拡大を旨としたのです。

なるほどですね。官僚が主導した戦争を、国会が後押しするわけですね。

大正時代になって、貧民層の救済をうたう社会運動が勃発ぼっぱつします。

いわゆる共産主義革命とは一線を画する社会民主主義的改革運動です。

政府は、「普通選挙」「福祉政策」をダシに、この勢力をも取り込んできます。

全体主義の兆しが見え隠れしてきましたね。

さらにこの本の面白い点として、中国の国民党政権の思惑を提示してきます。簡単にいえば、「中国のソビエト化」を阻止するために、日本を利用したというのです。国共内戦→国共合作→対日抗戦までの流れが、この一言で、手に取るようにわかりますね。

官僚・国会・財閥・労働政党が一致団結し、植民地獲得を目論む。一方、中国が日本軍をおびき寄せる。
この条件で、戦争が起こらないのが不思議です。

3.英米派とアジア主義者の対立

a)英米派の説く国際協調路線

初の本格的政党内閣を組閣した原敬。

彼は、徹底した国際協調路線を主導しました。
彼の慧眼けいがんは、「来たるべき20世紀はアメリカの時代」と看破し、英米との協調を説きます。
まだ幼き日の昭和天皇に英国留学を勧めたのも、原敬の慧眼けいがんあってのものでしょう。

彼の功績は、政党政治の模範となったばかりか、昭和天皇の人格形成、皇室のあり方にまで深い影響を与えています。

歴史にIFはないと言いますが、彼の主張が国家の指針となっていたら、第二次大戦であそこまでの被害は出なかった可能性は否めません。

戦後の政治を語る上でも、絶対に欠かせない存在だと思います。


b)アジア主義者たちのみた夢

歴史の教科書には「二二六事件」や「大陸浪人」などの用語が出てきます。

そこには、戦後の歴史書から完全抹殺された「アジア主義」という思想・運動が隠されています。

西洋列強は、アジアやそのほかの地域を植民地にすることで、その栄華を誇ってきました。

その一方で、アジアやそのほかの地域の人々は苦しめられてきたのです。

日本一国だけの利益を考えるなら、西洋列強と手を結んで仲良くしておけばいいわけです。

しかし、いやそうではない、アジア人のためにアジアを取り戻そう、と考えた人たちがいたのです。

幕末の攘夷じょうい思想の延長線上にあるものですね。

こういった考え方をする人たちを、ざっくりとアジア主義者と呼びます。

最終的に、彼らの思想は、アジアにおける革命あるいは西洋列強との戦争を導き出すわけです。当然多くの血が流れることになります。

もともとは、自由民権運動を母体とし、国権拡大論から発展してきています。

彼らは、福沢諭吉が唱えたとされる「脱亜入欧」論(註:政治学者の丸山眞男は福沢説を否定している)を批判あるいは継承して、様々なアジア論が展開していくのです。

人物として、頭山満や宮崎滔天、近衛篤麿、北一輝、大川周明あるいは孫文・汪兆銘などがいます。

ただ、このアジア主義に関しては、後の「大東亜共栄圏」につながってきますので、戦後、GHQにより、完全に公的な場から締め出されることになります。

(註:戦時中の大東亜共栄圏は、日本を盟主とし、他民族を抑圧するなどの問題点がありました。戦後、他国と対等な関係からの新たな視点が生まることになります)

c)暗躍する地下組織と、もがき続ける政治家

昭和初期においては、主にこの二つの考え方(国際協調路線/アジア独立)が対立することになります。

●ロンドン軍縮条約(1930年)
第一次大戦の反省から、英米日仏伊の5カ国で話し合われた軍縮会議。1922年のワシントン条約が8年限定であったための後続の条約。

この会議の直後、首相であった濱口雄幸が襲撃されます。

これ以後、国際協調外交を国是としていた政府が、路線を変更することになり、対英米関係も悪化することになるのです。

●五一五事件(1932年)
満州事変の翌年に起きたクーデター。
犬養毅首相が暗殺されました。

この背景には、政府の国際協調路線に対する強い不満があるとともに、関東大震災以降、連綿する経済疲弊(金融恐慌・世界恐慌など)による農村の困窮が背景にあるとも言われています。

犬養毅は、先述の頭山満の盟友であり、著名なアジア主義者でもありました。

満州事変勃発を受け、与野党の対立をなくすために生み出された挙国一致内閣の初の首相になります。

「話せばわかる」
「問答無用」

のくだりは有名ですが、実は翌日まで存命していて、

「おい、今の若いのを連れてこい。話がある」
「9発のうち3発しか当たっとらん。今の軍は訓練がなっとらん」

などとボヤいていたらしいですから、当時の政治家の胆力のすごさと言ったら。ゴキブリ一匹で、ギャアギャアさわぐ現代人とは比較になりませんね。

なお、この事件の黒幕として、思想家の大川周明の名が挙げられます。単に「青年将校の反乱」では片付けられない可能性もあります。

●二二六事件(1936年)
この事件は有名ですね。小説や映画で何度も描写されてますから、詳細は省きますが、この事件以降、社会の構図が大きく変わり、戦争への道をまっしぐらに進んでいきます。

議会や官僚システムが硬直してしまい、陸軍内部にも粛清の嵐が吹いたのです。この結果、陸軍上層部に対して、誰も反対することができなくなったんですね。

この事件は、1922年にイタリアで起きたファシスト党によるローマ進軍をモデルにしたと言われています。

つまり、誰かシナリオを書いた人間がいるということです。そのひとりが北一輝です。北一輝は、1911年の辛亥革命に当事者として参加しており、いわば革命のプロでした。そんな彼を日本に招聘しょうへいしたのが大川周明です。

なんとなく、線がつながってきましたね。
一連のいわゆる「昭和維新」運動には、すべて黒幕がいるんです。

陸軍大佐の橋本欣五郎や、某宗教団体なども絡んできます。その背景にあの“アジア主義”思想が横たわっているのです。

つまり、急進的アジア主義者が地下で暗躍して、日本の国家システムが大きく変化し、戦争への道を切り開くことになったのです。

政治には、必ず表と裏があります。表面ばかりみても真実には近づけません。表側の人間の言動から、文楽(昔の人形劇)でいう黒子の存在を探るべきなのです。

この事件の数日後、ナチスドイツがロカルノ条約により、非武装地帯とされたラインラントに侵攻します。

それをきっかけに「バスに乗り遅れるな」をキャッチフレーズに、ナチスドイツの盟友としての外交戦略を取ることになるのです。

さらにその3年後にポーランドに侵攻し、第二次大戦に突入していくのです。

二二六事件に関して、オススメしたい作品があります。この作品は、北一輝の生涯を三國連太郎が演じた映画です。「国家と革命」という問題について考えさせてくれます。
エンタメ性がなく、ちょっと難しいかもしれません。

4.東京裁判史観と戦後の歴史教育

1946年から2年間にわたり、戦勝国による敗戦国の裁判が始まります。極東国際軍事裁判です。

簡単に言いますと、満州事変以降の戦争を一括りして、日本が、ドイツとともに侵略戦争を起こしたと解釈したわけです。

文字数が限られてますので、詳細は省きますが、東京裁判の判決文をもとに、戦後の歴史解釈が方向づけられたのは事実です。

確かに、ポツダム宣言を受諾する条件のもとに降伏したわけですから、敗戦国である日本に抗弁権は一切ないのです。それが“戦争”ですから。

GHQの統制下のもと、さまざまな“国家改造”がおこなわれました。関東大震災以降、日本が直面していた問題を、代わりに担ってもらった感じですね。

戦前と戦後の政治・経済システムが大きく違っているのはこのためです。

しかしそれだけではありませんでした。

学校教育にもメスを入れ、修身科や国史・地理科を一切禁止し、代わりに“社会科”なる科目を創設しました。どこが違うかといいますと、戦前の国史・地理科には、民族性や論理的思考が含まれていたのですが、戦後の“社会科”は、単に用語を暗記するだけの形式的な科目にさせられたのです。

東京裁判の問題点は、あまりにも対象分野が広すぎるということです。もちろん敗戦国ですから、賠償金も発生しますし、領土の割譲も否めません。しかし、歴史や文化まで奪われるいわれはないと思われます。

戦前の日本が正しかったとは言いませんが、だからと言って、東京裁判で公表された歴史解釈を、さも金科玉条のように崇め奉るのもいかがなものかと考えます。

明治以降の価値観も、戦後の価値観もすべて一掃し、未来に向けた新しい価値観を構築するべきではないでしょうか。

東京裁判については、こちらの本をオススメします

5.さいごに

戦後教育を受けた私たちは、
「あやまちは繰り返しません」
「日本人は、アジアで悪いことをしてきた」
「平和こそ正しい」
と学校で教わってきました。

果たして、本当にそうなのでしょうか。
本当に私たちより上の世代の人たちは、残酷非道な行いをしたのでしょうか。

沖縄には今だに米軍基地が存在し、中には罪を犯す米兵もいます。しかも日本の法律では裁けないのです。

米軍が正しくて、日本軍が悪いという図式は、果たしてどこから来るのでしょうか。

戦争の勝敗とは、ここまで残酷なものなのでしょうか。

日本が近代化した流れと、西洋列強と全面戦争した経緯を詳しく分析し、この矛盾の原点はどこにあるのかを探るべく、今一度考察し直すのもいいかもしれません。

本日は、8月15日。

死者の御霊みたまに感謝の意を伝えるとともに、記事を閉じることとします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?