防犯カメラやドライブレコーダーのない自由な時代へ

ソ連は冷戦に勝利した。1970年代の人が現代を見たら、そう思うかもしれない。
私たちは日々、撮影され続けている。ひとたび外へ出れば、防犯カメラやドライブレコーダーに映らない日はない。毎日毎日どこにいたかを、再生可能な形で記録され続けている。
 
 これが、ソ連など東側諸国の日常であった監視社会でなくて何なのか。撮影の主体が国家か民間か、データを適切に管理しているかなど問題ではない。毎日記録や再生から逃れられない事、肖像権やプライバシー権を侵害されないと生活できない事自体が問題なのだ。

 防犯カメラには、犯罪抑止効果はない。日本弁護士連合会が2012年1月に公表した資料からも明らかである。

 また日本においては、他人の建物の中、他の建物の玄関やその周辺を撮影し続けた場合、たとえ防犯目的であっても損害賠償を命じた判決は複数ある。絶対に監視を拒否できる場所があると、裁判所も認めているのだ。

 つまり防犯カメラによる撮影は防犯効果もなく、場合によっては損害賠償も命じられる反倫理的な行為なのである。

 そして、少し持論を譲って犯罪が増えたとしても(増えるかどうかすら疑問だが)、それは自由主義社会において引き受けるべき責任である。防犯を理由に自由を犠牲にするのは、加害者ではなく一般の人を刑務所に入れると言っているようなものだ。

 防犯対策のすべてを否定しているのではない。鍵を2重にしたり、強化ガラスを導入したり、住民の見守り活動などはよいだろう。しかし、肖像権やプライバシー権、自由を否定するやり方での防犯活動は、自由主義社会を壊している。

 中国のような監視社会を、世界中の自由主義国家が批判している。それならなぜ自分たちの社会の監視を拒否できないのか。事故や犯罪、テロの恐怖を口実に、防犯カメラやドライブレコーダーを設置して自由を犠牲にしてはならない。

 私は、自由が大好きだ。誰にも監視や記録されない、そんな世の中であってほしい。ほんの3,40年前まで、防犯カメラやドライブレコーダーなしでも、普通の生活をみんなが送っていた。防犯カメラやドライブレコーダーなしの生活は、不可能な話ではない。

 私たちの肖像権やプライバシー権、ひいては自由をも奪い続ける防犯カメラやドライブレコーダーを、この世から一掃したい。

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