タオル
自分の中の固定観念に気づいた話。
最近、ひとを家に泊めたり、ひとの家に泊まったりする機会が多いです。
我が家に泊まってもらう場合、お風呂のときはお客さんにバスタオルをお渡しします。しかし一人暮らしのため、バスタオルの在庫はそれほど潤沢ではなく、大人数のときはフェイスタオルで我慢してもらうこともしばしばです。
そんなお風呂前のやりとりで、「フェイスタオルでいいよ!」と言ってくれる人もいます。
そう、まさに「言ってくれている」のだと思っていました。つい最近まで。
「洗濯物が増えて大変でしょうから」という気配りだと。
よくよく聞いたら、その人は普段から自宅でもお風呂上がりはフェイスタオルを使うとのこと。この習慣、私としてはかなり衝撃でした。
思えば物心ついたときから、体の小さな私も、髪の短い父も、もちろん母も、家族みんながバスタオルを使っていました。
バスの後のタオルはバスタオルであると、考える余地もないほど当たり前に決まっていました。
一人暮らしを始めるときも、来客用にとってあった新品のバスタオルを母が持たせてくれました。それを今まで、なんの疑問も持たず使い続けてきました。しかしその思考は、家に訪れたひとりの客人によって断ち切られたのでした。
振り返ってみれば、私は生活の中で感じていました。
バスタオルってでっかいなと。
体を包み込めて便利だけれど、洗濯のときは嵩張るし乾くのは時間がかかるし。
でも、そんな不満も「バスの後のタオルはバスタオル」という常識のもとで、甘んじて受け入れていました。
しかし、私が思考停止で生きている間にもビジネスはうまれていて、調べるとミニバスタオル、ビッグフェイスタオルなどという知らない名前の、しかも私のニーズにがっちり応えたサイズ感のタオルが世の中に流通していました。
手元のメジャーで寸法を確かめて、思わず深く頷いていました。求めていたサイズ感過ぎて。
今、ネット注文したビッグフェイスタオルの配達を楽しみに待っています。これから変わるぞ、私のQOL(風呂・洗濯まわり)。
今回の件以外にも、家族という小さな世界で長年生きてきた代償がたくさんあるんだろうなと思います。
他人と会話をする面白さを改めて痛感してしまいました。
これを機に、日常の些細な不満に敏感になってみようと思います。
一人暮らしの私の城で、私の生き方に文句を言うやつなんていないのだから。
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