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スマートフォン、あるいは現代のパリンプセスト

あなたは今の恋人と別れたらその人の写真を消しますか?

 少なからぬ現代人がこの問いにイエスと返答するであろう。実際、私は最近1000葉を超える元恋人の写真を消したという話を耳にして、どうせ消すならばそんなに大量に撮らなければよいものをと苦笑した。それにしても、彼らは何を目的に写真を消すのか。おそらく、「ケジメをつけ」、「前を向く」ための儀式なのだろう。しかし、私には、写真を消したところで何も本質的には解決されていないように思われる。その原因は我々のスマートフォン、タブレット、ラップトップにある。その普段は真っ黒いキャンバスは、電源スイッチを押し写真フォルダーを開くという我々の操作に従って、ごく小さく折り畳まれていた情景を鮮やかに再現前させる。この魔法の道具に私はしばしば魅せられる。どれほど明瞭な情景の記憶であっても、写真の圧倒的な複製力の前にはひれ伏さざるを得ず、写真を眺めるたびに我々は今まで見落としていたディテイルにハッとさせられる。ここで見落としてはならないのは、こうした魅惑的でそれ自体として記憶に残るような写真を見せてくれる電子機器のスクリーンの不可逆的な性質である。
 スクリーンが不可逆的であるというのは、文字通り、一度スクリーン上に浮かび上がったものは二度と消えることがないということである。ひとたびあなたが恋人の写真をスクリーンに輝かせたら、写真フォルダーを閉じ、あるいは写真そのものを削除し別のアプリケーションを立ち上げたとしても、スクリーンはその写真を別のもので塗りつぶすことはあってもその裏ではあなたの恋人の写真は真っ暗闇の中で永劫に輝きを放ち続ける。こういう言い方をしてもよい。事後にどれだけの操作をしたとしても0と1のバイナリーコードから構成される「かくかくしかじかの写真を表示せよ」という命令はいつまでも残り続ける(It lingers forever!)。

パリンプセスト

 ところで、紙なき時代を生きた人々は羊皮紙をしばしば再利用した。価値を認められなくなった写本をバラバラにして薬品で文字を消し、その上から新しく文章を記す。このような上書きされた写本はパリンプセストと呼ばれる。墓暴きを事とする近代人はパリンプセストもまた熱心に暴いた。パリンプセストの解読を通じてアルキメデスの著作が浮かび上がったり、コーランの異写本が発見されたりと、パリンプセストは人類史の1ページを飾るだけでなく学術的にも重要な存在である。
 パリンプセストの一つの特徴は時の流れ、あるいは過去との連続性にある。写本が時を経て別の写本に作り変えられるというパリンプセストのあり方自体がまさしく時の流れを強く感じさせる。
 このパリンプセストの概念、あるいはパリンプセスト的なるものは私を強く惹きつける。たとえば都市をパリンプセストの変種とする見方があるが、この考え方と初めて出会ったときの感動はなかなか忘れ難いものがある。数知れぬ人々が踵を擦り減らす街路、孤独死した老人の家を取り壊して造られる赤子連れの家、ひどい悪臭を放つ古びた公園の公衆便所、さらには都市に生まれ都市で生き都市で死ぬ一人一人も都市という一つの巨大なパリンプセストの重要な構成素である。その点で、色町は都市のパリンプセスト性を極限まで高めた地と言えよう。色町に集う男女の生き様は人の好奇心を刺激してやまない。そう、パリンプセスト的なものは人の好奇心をいたく刺激するのだ。美しいものの奥に潜む醜さ、醜いものの奥に潜む美しさ、仮面の下の素顔、などなど。上塗り/上書きされたものは魔術的な魅力を持って人を惹きつける。また、「内側に隠されたもの」に性的な表象を見出すことは色町を引き合いに出すまでもなく可能であろう。

決別

 かくの如き魅力に満ちたパリンプセストであるが、紙の量産が可能になってからはめっきり姿を消した。それでも、完全に淘汰されたわけではない。油絵を思い出していただきたい。ゴッホの自画像が農婦の頭部像の「下から」発見されたニュースは記憶に新しいし、他にもフェルメールの《窓辺で手紙を読む女》の塗りつぶされた背景には実は巨大なキューピッドの画中画が隠れていた、なんてニュースもあった。特に後者は最近来日した絵画であるから復元された絵を見て「画中画が塗りつぶされていたときの方が美的だったろうに」という感想を抱いた人も多いはずだ。音楽の分野でも、自筆譜には作曲家の苦悩の跡がありありとあらわれている。五線譜を上書きして使用するのは流石に無理があるので、塗りつぶして隣に書き直すというのが楽譜における典型的なパリンプセスト性の現れ方である。このように芸術の分野においては脈々と受け継がれてきたパリンプセストであるが、近代以降の未来志向、特に科学の烈火にその牙城を著しく崩されていたのもまた事実であろう。前述のように写本を再利用するような原義パリンプセストが消滅したのはもちろんのこと、時間の経過や過去との連続性を感じさせる事物は「新しいモノ」の津波で根こそぎにされた。最大の大波はもちろん、写真の登場である。瞬間を暴力的に文脈から引き剥がして永遠に糊付けするこの装置は、過去との連続性(=ストーリー)を前提としてきた従来の芸術にアイデンティティの危機をもたらした。写真芸術として優れた写真は、必ず時間軸から遊離している。優れたシュルレアリスム写真家として知られるマン・レイの写真はその代表格である。女の涙を捉えた彼の作品は、鑑賞者が間違っても写真の「文脈」を探ったりしないよう周到に設計されている。さらに、これは芸術写真ではなく報道写真だが、かの《サイゴンでの処刑》において時間が断絶しており、さらにその時間の断絶の中に男の死もまた埋没したことはあまりにも有名である。写真はパリンプセストの対極的存在として世界を牛耳ったのだ。

回帰

 しかし、パリンプセストの対極としての写真はあるとき唐突に自壊を始める。それはデジタルカメラの発明と時を同じくする。現像の作業を経ることなく写真を目にすることができるようになるというこの画期的発明は、写真の利便性を一気に向上させるとともに写真に決定的な変質をもたらす第一歩ともなった。デジタルカメラの技術を引き継いで存在するのが現在のスマートフォンのカメラ、および写真フォルダーである。いまや、写真をわざわざ現像する人は少なく、ほとんどの人はスマートフォンやタブレット、ラップトップといった電子端末のスクリーンに画像を表示することで用を足している。フィルムという一回性に満ちた道具が没落し、何年分もの写真を一台で撮影し保存するスマートフォンが興隆する。スマートフォンによって撮影された写真は写真フォルダーの中で山と積まれる。そして、冒頭で述べた通り、一度スクリーン上で輝いた写真はその後どのような画面を表示しようともどれだけ徹底的に削除しようともスクリーンの深層で光を放ち続ける。その点において、スマートフォンは明らかにパリンプセスト的性質を帯びている。そして、あまりにも皮肉なことに、スマートフォンにパリンプセスト的性質を与えたのは他ならぬ写真-パリンプセストを徹底的に破壊したはずの写真-なのである。
 では、このもとで、前の恋人の写真を削除する是非はどのように論じられようか。スマートフォンという究極のパリンプセスト-原義のパリンプセストは多くても2回の書き換えしか行われていなかったようだが、スマートフォンにはいったい何枚の写真が収められていることか!-に縛られて生活している以上、物言わぬ真っ黒なスクリーンの奥深くからの叫びを聞かずに済む鈍感さを持ち合わせずば、消さぬに如くはない。消してしまえば、声なき声に苛まれる。消さずにおけば、少なくとも声を出しているのが何なのか、それはわかる。異形の化け物の方が無形の化け物よりも数倍マシというものである。

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