支離滅裂の好き

もう20年前のことになるが、あの頃はまだテレビドラマに勢いがあり、さらには過去のドラマの再放送も盛んにされていて、今よりもテレビを見る時間が圧倒的に多かった。

当時小学生の割には、自分はドラマを多く見ている子供だったと思う。新聞や雑誌の番組表をよくチェックしていた。今のようにスマホがあるわけでもなく、娯楽が限られている中で、ドラマは楽しみの一つだった。

再放送で見た「やまとなでしこ」は、再放送される度に釘付けになって見ていた。美人な桜子は性格さえ良ければいいのに、と子供ながらに思っていたし、心優しい相手役の堤真一のことは、やまとなでしこ以外でもテレビで見かけたら嬉しくなった。織田裕二の「お金がない!」とか、LUNA SEAが歌う主題歌が頭から離れない「神様、もう少しだけ」も印象深い。友人と遊ぶ予定のない日の夕方は、再放送ドラマを夢中になって見ていた。月9は「いつもふたりで」が当時とても好きで、そこから月9も見始めた。見事にフジテレビのドラマで私は形成されていた。

小学校高学年になった頃、22時前後まで起きてても叱られることが少なくなってきた。テレビを見る時間がさらに増えて、偶然見かけたドラマがあった。

「白い巨塔」、私が唐沢寿明に出会った作品だ。

恋愛をテーマにしたドラマが多かったこともあるが、それまで私は社会派ドラマを見たことはなかった。初見は、お医者さん達が悪い顔をしてなんだかいつも喧嘩している難しいドラマ、という印象だった。だけどもなんだか目が離せない。難しいやりとりの中、唯一親しみやすい内科の里見先生。彼が出てくると少しホッとした。だが、この作品でとにかく驚いたのは、唐沢寿明演じる主人公の財前五郎だ。ドラマを見ていると財前は悪いことをしている、なのに主人公なのだ。当時「悪役が主人公をしている」と感じて、衝撃が走ったのを覚えている。さらに、「悪役」にも関わらず、そのカリスマ性にも惹かれた。どこまでも堂々としていて、迫力があった。里見先生の言ってることのほうが優しくて、患者に寄り添ってくれている。それなのに、財前教授のほうがかっこよく見えて仕方なく、見れば見るほど財前を応援したくなってしまう。

白い巨塔が終わっても、財前教授=唐沢寿明のイメージがとても強く残ってしばらく頭から離れなかった。財前教授がまた見たい。唐沢寿明がまた見たい。そこからテレビCMや、他のドラマなどで見かければ目で追うようになっていた。

あるバラエティ番組に唐沢氏が出た。役じゃない、彼本人が話しているのを見るのは初めてだった。ドキドキしながら画面を見つめた。そこに映るのは、財前教授とは真逆の、飄々と冗談を言う男だった。あまりのギャップにあっけにとられながらもその様子を見続けた。財前教授のように傲慢で、近寄りがたく、しかし憧れてしまう魔性の魅力を持っていた彼とは大違いの、同じ顔をした男がいる。だけどもその飄々とした軽さの中に、見えない奥深さがあって、何を考えているのかわからない、どこかミステリアスな雰囲気をチラつかせながらもみんなを笑わせるギャグをかまし場を盛り上げる男。なんだこの人は、と思った。

番組の中では、大量のわさびを入れた寿司を、表情を変えずに食べ、誰が食べたのか当てるゲームをしていた。誰が食べたのかは視聴者にもわからないようになっていた。出演者の誰もが寿司を口に運んでは美味しそうに食べ、順番が最後の人まで皆美味しく食べた。どの人を見ても、とても嘘をついているようには見えなかった。視聴者である私も表情だけでなく、辛さを我慢するあまり耳が赤くなっていないか、額に汗をかいていないか、目を無理矢理見開いたり、細めたりしていないか、眉間に皺は寄っていないか、と画面越しに一生懸命人間の生理的な反応が示されないかと熱心に見つめていたのだが、誰一人としてそんな人はいない。さあいったい誰がわさび寿司を食べたのか?…答えは唐沢寿明であった。出演者はもちろん、テレビの前の私も度肝を抜かれた。嘘だ、だってあんなに美味しそうに食べていたじゃないか…。確認のため、彼が食べたのと同じ量のわさびを盛られた寿司を、共演者が口に運び、案の定阿鼻叫喚の図が画面には映っている。その様子を見ながら彼は涼しげな顔をして「いやあ辛かった~」と呟いている。信じられないまま、唐沢寿明という俳優の凄まじさに目をパチパチと瞬きさせることしかできなかった。

2009年、フジテレビ開局50周年を記念して発表されたドラマ「不毛地帯」。原作はあの「白い巨塔」と同じ山崎豊子作品。主演は唐沢寿明。来た!と思った。またあの財前教授のように、私を驚かせてくれる。そう確信してしっかり1話目から視聴した。高校生になっていた私は、毎週木曜22時にテレビの前でリモコンを握りしめたまま、一心不乱に唐沢寿明演じる壹岐正の生き様を目に焼き付けていた。

白い巨塔と比較すると、空気感はよりシリアスさを増し、重厚感という言葉がぴったりの濃いドラマだった。戦争、商社同士の争い、政治家を巻き込んだ経済戦争、そしてシベリアで亡くなった戦友達への思いを抱えた、ありとあらゆる社会と人生と感情と人間模様を巻き込んだ、難しいドラマだった。ポップさも白い巨塔に比べればだいぶ薄れ、正直見ていて辛いこともあった。しかしそれでもなお、唐沢寿明はじめ、他キャスト陣のとんでもない演技力に魅せられ、描かれる商戦も面白く、見れば見るほどのめり込んだ。白い巨塔の財前と比べると、不毛地帯の壹岐正は寡黙だが、情に厚い男であった。一方で、元陸軍大本営の参謀ともあって非常に頭のキレるキャラクターで、それ故に敵を多く作ってしまう。白い巨塔の財前とは違い好戦的ではないものの、疎まれる役回りだった。キャラの在り方は真逆なものの、役がハマりにハマっていて、私の中の彼の印象は壹岐正に変わっていった。

不毛地帯の物語も佳境を迎える中、その時は来た。

それは取引のために、壹岐正が因縁の地であるソ連に足を踏み入れなければならなくなり、部下である兵藤と言い争いになるシーンだった。シベリアでの強制労働の苦しみにより、たとえ仕事であってもソ連へ行くことを、壹岐はどうしても受け入れることができない。対して兵藤が「壹岐さんの日頃口にされている"国益"というのは、随分ご都合主義なんですね」と発言したことに対して、次のように激昂する。

「生意気な口を叩くな!君には極北の流刑地で囚人番号を押され、地下数十メートルの暗黒の坑内でツルハシを持ち、11年間も重労働を強いられてきた人間の苦しみがわかるか!!」

普段冷静で、感情を滲ませず淡々と話す壹岐の嘆きにも似た怒声に、思わず鳥肌が立った。怒鳴り声に驚いて、ではない。壹岐が抱えているシベリア時代の、あまりにも重い苦しみや失った戦友達への思いなど、これまでの人生全ての記憶と感情が、ただの視聴者である私をも巻き込んで、ぶつけられたからである。あんなに鳥肌が立って、絶句して何もできずただただ画面の前で正座してしばらく動けずにいた経験はなかった。今でもあれを超える演技は自分の中では無い。頭の中も壹岐の怒りが漂っていて、自分の言葉なんて浮かばなかった。ドラマということはわかっているのに、壹岐正の重くどろどろとした苦しみの前に、何もできなくなってしまったのだ。

これはただごとじゃない。いや、私はすごい人を好きになってしまった。数日経ってようやく自分の中の感情とか何かを咀嚼して、以降も不毛地帯の最終話まで見届け、そこから唐沢寿明についてようやく掘り下げ始めた。

ガラケーの小さい画面の中でウィキペディアを開いて、唐沢寿明が出ている作品を調べた。紙に書き写し、TSUTAYAで借りられるものを片っ端から借りていった。小学生の頃に見ていた白い巨塔も全話見返して、自分が生まれてもない頃に放送されていたドラマなども見た。映像作品だけじゃない。なんと本まで出している。「ふたり」という自叙伝的なエッセイ本で、しかもミリオンセラーになっていた。しめた!と思った。何がしめたのかは上手く言葉で示せないが、本でしかも本人の人生を読めるなんて、じっくり彼を深めることができる喜びを噛みしめながら、通学中、放課後の図書館、自宅で夢中になって読んだ。

読了し、驚いたのは彼がトレンディ俳優だったことだ。

私にとって彼は白い巨塔のイメージが強く、それでいてバラエティ番組での飄々とした印象。だというのに、彼が爆発的に売れたのは、そのイメージとはまるで違う、シャツにチノパン、さわやかでハンサムな俳優としてだった。私にはその姿が全く想像できなかった。確かに作品を漁れば漁るほど、時代を遡るに連れ、さわやかな役柄のものは多かった。しかしそれでもにわかに信じがたかった。だってあんなに堂々として、でもつかみ所が無くて、聡明な人が、いわゆる優男というか、「ハンサム」だなんて、と飲み込めずにいた。そしてさらに面白いのが、唐沢本人はもともと負けず嫌いで、反骨精神の塊みたいな人物だというところだ。当時本人も世間のイメージと本来の自分とのギャップに苦しんでいたと言う。その時代を知らない私は、当時の世間のイメージと自分の中にある彼への印象の大きな違いに戸惑っている。時代が変わって、違ったギャップを感じているこの現象はいったいなんなんだ…とおかしかった。それと、唐沢寿明もとい唐沢潔(本名)は負けず嫌いで反骨精神の塊、というのがなんだかとっても嬉しかった。私自身も負けず嫌いなところがあるので、勝手に親近感を寄せることができたからだ。

また、凄まじい生い立ちの中で俳優になったことも知った。そして奥さんとの出会い等も詳細に綴られていた。エッセイ本だから内容は盛られているかもしれない。だけどもその本の語り口調やら何やら、そしてこれまで見た番組の彼を思い起こす限りは、嘘を言っている気はしなかった。ありのままを隠さず綴られていると感じた。もちろん彼の全てを知っているとは思っていないが、そう感じ取れる本だったことが、とてつもなく嬉しかった。

高校を卒業し、大学生、社会人になった今でも、唐沢寿明の作品はできるだけチェックしている。他にもいろんな俳優のことを好きになってはいるけども、私の中では唐沢寿明が一番だ。定期的に作品を見返しては、熱がぶり返して、時間を忘れるほど作品を見ることもしばしばある。ちなみに今回この文章を書き始めたのも、まさに今唐沢寿明熱がぶり返しているからである。

ちょうど最近、関東ローカル?で古畑任三郎が再放送され、ゲストで犯人役として彼が出演していた回も放送されていた。こういう言い方をあまりしたくはないのだが、古畑任三郎に出ていた時の唐沢氏は、個人的には一番好きなビジュアルをしている。年を召されて二重になる前で、一重でキリッとしていて、でも目が大きくて目力が凄まじくてスマートで、とにかく、とにかくかっこいいのだ。そして役柄もキザで傲慢で、ファンからキャーキャー言われる役だった。私もキャーキャー黄色い声援を送るエキストラになりたかった。あまりにもその回を見た過ぎて、フジテレビのサブスクのFODに加入して古畑任三郎を見た。これがダメだった。そこから不毛地帯や白い巨塔はもちろん、愛という名のもとに、妹よ、等のドラマもまた見返して、連日寝不足、ものもらいの日々を過ごしている。

そしてここまで書いてきて、こんなに唐沢寿明のことが好きなのに、上手く文章が書けないことに対して落ち込んでいる。どれだけ好きか。どこが好きか。どれだけすごい俳優なのか。たくさん語りたいことはあるのに、いざ文字にしてみると浮かばない。いつもそうだ。感情は爆発しているのに、その原材料が自分でも何で構成されているのか言語化できない。そして文字でなく、実際に話してその魅力を伝えたい気持ちもあるが、これもダメで、とにかくすごくてかっこいいんだよ!みたいな貧困な語彙に終着してしまう。ツイッターで140字で何も考えずそのとき感じたことを呟いている時のほうがよっぽど説明上手なのではないかと思う。それをまとめようとするとそれまでの流暢な文章はどこかに消え、ひたすらドラマや役柄の説明になってしまう。もどかしくて仕方がない。

いっそ、まずドラマのプレゼンをし、その内容を資料にまとめたほうが間接的に自分の好きだという感情をまとめられるのではないか?なんて考えながら、自分の中で腑に落ちる答えを模索し続けている。そうやって想像に耽っている時は楽しいのだが、いざ文字にすると出てこない。やっぱりあまのじゃくな性質が強いな自分は…とか思いつつ、納得のいく唐沢寿明大好き論(?)はいつ完成するんだろう、まあ今回ここまで書いただけまだいいか、というループを繰り返していくのだと思う。











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