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人助けを「偽善」と考えていた私が継続的な募金を始めた理由



 私は10代の頃、人助けの募金や難民支援といった、いわゆる慈善活動全般に対して、偽善的だと冷ややかな感情を抱いていました。
 
 その私が、難民を支援する国連UNHCR協会を通してささやかな額ではありますが、月定額の寄付を始めました。
 なぜ、慈善活動に嫌悪感すら抱いていた私が方向性を変えたのか。その理由を簡単に書こうと思います。

■慈善活動を嫌う理由は、貧乏

 慈善活動に興味を持てなかった理由は一にもニにも、自分の家庭環境にあります。
 私が幼い頃、家は事業をしていましたが、私が小学校高学年になるくらいには目に見えてまわらなくなり、私が中学へ上がる前に倒産しました。
 父は借金を抱えて行方不明になり、残された私たちには手持ちのお金すらない状況でした。母親は貯金箱を壊したり、家の隅から隅まで探してお金を搔き集め、卓袱台の上に、お札や小銭をばらばらと集まりました。その額2万円といくらか位だったと記憶しています。
 当時小学生だった私にとって、2万円という額はそれなりに大きい額ではありましたが、同時に、家族の生活費としては心もとない額という理解もしていたました。家の全財産が2万円ちょっととは……子供心にゾッとしました。
 幸い、しばらくすると親戚からの援助もあったりして当面のごたごたを終え、当然、母親もフルタイムで働き、生活はそれなりに落ち着きました。それでも収入は母の稼ぎのみで、しかも借金の返済があるため、贅沢できない生活は続きます。
 小中高と公立の学校に通ったので、裕福な子がとりわけ多いわけではなかったと思います。私は人に溶け込み、できるだけお金がないことで人に気を遣われないように、と心を砕きました。
 ありがたいことに、友人にも恵まれ、とても楽しい学生時代を過ごせましたが、例えば、小学生の頃、友人たちがおそろいで親に買ってもらった服(たしか、2、3000円くらいだったと思います)が自分の家では買ってもらえなかったこと。みんなで行こうと話していたディズニーランドには、当日になって熱が出たと嘘をついてキャンセルしたことなど、苦しい思い出はいくつか残っています。

■自分が稼ぎ始めると、一層まわりが恨めしく

 高校に上がると、学費も自分で稼がなくてはいけません。空いている時間が惜しいと、授業がない時間はほとんどバイトを入れました。
 バイトとはいえ、ようやく自分で稼げるようになれのは喜びでした。家への負担を減らせるし、コンビニでお菓子を買ったり、ちょっとした洋服を買う余裕ができたのは嬉しかったです。
 ただし、学校に通いながら、平日夜と土日にまんべんなくバイトを入れると、身体にまんぜんとした疲労が溜まっていきました。
 テスト期間は、バイトを終えた後に、朝まで寝ないで勉強しました。当時、お金の心配なく勉強のことだけ考えてればいい友人が羨ましく思えて仕方なかったです。もちろん、口に出すことはありませんが。

■「後ろめたい。」そんな思いから倦厭するように


 そんな状況ですから、進路のことを考える時期になって、人によっては、貧しい国の窮状を救うための勉強を志したり、社会福祉へ貢献できる職業を志望すると名乗り上げた時に、悪気なく白々しい気分で見てしまいました。
 今思うと、その理由は2つあったと思います。

①慈善活動を志望するのは、自分の生活が安泰だから
→安泰ではない自分は、まず自分の生活をどうにかしたい→慈善活動を志せる人に比べて自分がみじめ
②自分には慈善活動をする心の余裕も、経済的な力もない
→できないという後ろめたい感情

 私は、慈善活動について考える時に出てくるのがこれらの感情に、蓋をするために、慈善活動を遠く離れたものとして捉えるようにしていたのです。

■「東日本大震災」がきっかけで自分は被害者ではないと気が付く


 そうやって慈善活動を遠ざけてきた私ですが、大人になり、次第に慈善活動への関心を高めていきました。30代なかばの今、国連UNHCR協会に定額募金も開始しました。
 理由のひとつは、東日本大震災です。私はその時東京にいて、指をくわえて報道を見ていました。
 あれだけのおそろしい天災が東北をおそったのに、自分は何も傷を負わず、誰かを助けることもできず、のうのうと生きている。
 それまで、私はどこかで「私は貧乏な家で育った人生の被害者」という意識があったように思えます。未曽有の震災を経て、ようやく、それが認識が甘かった気が付いたのです。
 世の中には自分より苦労を背負っている人がたくさんいる。私以上に貧困な状況で生まれた人、紛争地域に生まれて安全に過ごすのも困難な人、親に愛されない人、生まれながらに先天的なハンディがある人などなど。そして、昨日まで幸せに過ごしていたのに、一日ですべてを奪われてしまった人。
 私は五体満足で生活できて、まわりに心許せる人もにいる。これ以上に満たされていることはないのに、裕福な人と比べてやや金銭的に満ちていないというだけでその上であぐらをかいている。この気づきがひとつでした。

■結局、自分の生活が安定していないと人に支援できない

 また、もうひとつは、金銭的に安定してきたこと。
 社会に正式に出て働き始めても、最初はなかなか、在学中にためていた社会保険などの返済や家への送金へ充てるため、実入りはわずかだったものの、30歳を過ぎる頃には、お給料をまるまる得ることができるようになりました。
 こうなってくると、逆に拍子抜けするような気分で「え、私こんなにお金をもらっていいの?」とびっくりするほど。だって、学生時代にバイトをしこたまやっていたころより、肉体的にはずいぶん楽で(学校がないから)、普通に働いているだけで、毎月少し余裕ができるほどお金がもらえるとは、苦労していたころの自分に申し訳なという気もします。それだけ、10代、20代の頃の苦労が大きかったのかもしれません。
 そうなってくると、ようやく心に余裕ができてきて、自分より困っている人に少しでも支援をしたいという気持ちが湧いてきました。
 結局は、慈善活動に向き合えるようになるには、自分の生活が安定していること。これが大事なのだと思います。
 中には、自分が苦しい中、さらに辛い生活を送っている人に目を向けられる立派な人もいるでしょう。ですが、多くはないはず。人は、自分が満ちていないと、誰かに分けられない。心も金銭面も、自分が満ちてはじめて、自分ではない誰かへ思いやりが湧くのではないでしょうか。

■まず、自分がしっかり生きることが大事


 今回の記事を通じて伝えたのは、「今、慈善活動に興味がない人、これまでしてきたことがない人は、自分を恥じないで」ということ。それはその人が、自分のことに精一杯に生きているだけ。
 まず、自分が生きる。それが一番大事。
 きっと、自分がしっかりと生きられた時に、ふとまわりを見て困っている人がいたら、手を伸ばしたいと心から思えるものかもしれません。
 自分がきちんとしていない状態では、人のことを救うのも難しい。そんな風にも思います。ですので、まずは自分を大事にしてあげてください。その上で、やがて、自分を育んできた環境や周囲に目を向けていけるといいのでは、と。

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