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ラインを越えて

電話がきてから、矢のように走った。
常軌を逸した顔をしていただろう、わたしは。
道行く人が驚いていた。

タクシーのドライバーさんに
行く先だけ告げたけれど
その人は病院の名前と、わたしの顔つきを見て
絶対違法なほどに、車を飛ばしてくれた。
何も言わず何も聞かず
世の中ほんとにいいひとがいるものだ。
もうなんの涙かわからない涙を隠しもせずに
「ありがとうございました。お釣りはいりません」と頭を下げた。

わたしが着く十分前に
母は最後の息を終えていたらしいのだけれど。
わたしには、間に合ったようにしか思えなかったのだ。
母は、まだ暖かく柔らかく
話しかけると表情が変わっているようにしか
見えなかった。

境界線はもう越えているらしい母は
わたしには見えないラインの
間にある存在に見えた。

心電図モニタも繋がず
人工呼吸器もつけなかった母。

厳密にいつ亡くなったのかは
本当は特定出来ないことなのだと
先生は話してくれた。

呼吸が止まる。
心臓が止まる。
血液の流れが止まる。

それでも体内の内臓たちの活動
そして細菌たちの活動は
続いている。

「厳密には、人間がいつ亡くなったのかは
特定出来ることではない」
わたしに何かを言いたそうに、先生は言った。

境界線は、本当はどこにもないのかもしれない。

少しずつ違う世界へ移行して行っている母に
わたしはいつもと変わらず
話しかけ、泣き、手を握った。

ラインを越えて
わたしは生き始めることが
出来るだろうか。

勇敢な母のように。

あと少し時間がたったら
あと少し涙が枯れたらきっと。

そうだ。
きっといつか。

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