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ほとばしる・突っ走る

恋と革命とか、そういうもので出来ていた。
かつてのわたしは。
いつも血の気が多くて、上がったり下がったりしていて、皮膚の外に神経が通っているみたいに神経質で。

そのすべてが良かったなんて全然思わない。
面倒くさい奴だったし、ジョークが通じない感じだし、傷つきやすくて付き合いずらいキャラクターだったと思う。

みんなは普通にスタート地点に立っているのに、ひとりだけクラウチングスタートの姿勢になっているような痛々しさ、いたたまれなさが
役者だった頃のわたしには確かにあったと思うのだ。

そんな自分を愛せなかった。
ダサいし、存在の意味を肯定できなかった。

いま思うことは
クラウチングスタートか、なかなかイケてるなということだ。
一周回って、いまや大分お洒落かもしれない。

「これがわたしの全部です」
「今日死んでもいいんです」
そんな歯の浮くような台詞を
また呟いてみたい。
それが今更もう一度
自分をまな板にのせる理由かもしれない。

ずるいぜ。
ずっとそう思っていた。
自分に対して。
介護の仕事を好きだと言いながら
どこかで本業ではないという自由を
わたしは保ちながら生きてきた。

「本業ではない」
それは本当に、どんなに人を楽にする言葉か。

わたしはもう芝居で食べてはいない。
これからもプロになることはない。
ただの楽しみとして、復帰するだけだ。

それなのに、こんなにも恐い。
震えるほどに恐い。
それが「本業」であることの
逃れられない証なのだろう。

逃げられない場所に
もう一度自分を追い込むことで
わたしは
わたしの好きな人に
叫びたいような気持ちを
伝えられるかもしれない。

もう一度芝居をやる。
そう決めた日から、顔つきも
話し方も、立ち方も
考えることの内容すら
変化し続けている。
笑ってしまうほどだ。

本物のスイッチを、やっと押すことが出来たから。
やるならば、プロでもう一度やろうなんて、小さなことにこだわっていて
こんなに長い間留守にした。
それがどんなに愚かなことだったか、いまわかる。

やりたかっただけだ。
ただ芝居を。
そのことに、十年、気づかなかっただけだ。

愚か者はこれから
ほとばしる、突っ走る。
頭を空っぽにして再び
スタートラインにしゃがみ込む。

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