開け放った窓から
通り過ぎていく風がある。
伸びていく緑がある。
それでもまだ留まる自由もある。
村上春樹さんの新刊「街とその不確かな壁」を読んで感じたことは、今までに春樹さんが描き続けてきた、3つの要素がないということだった。
悪とセックスと正義(あるいは感情の爆発)
今回の春樹さんの作品には、「やみくろ」も新興宗教も出てこない。邪悪なものは登場しない。
精神の交流としての、あるいは癒しとしてのセックス。それも春樹さんの小説の特徴だった。今回はそれもない。肉体はあらかじめ閉じられており、それもとても安定的な形で存在している。
正義(あるいは感情の爆発)は、最も強い特色だったと思う。安保闘争にまつわる、その時代の火種についての激しい感情。
正義感ゆえの自身への内省と批判。純粋過ぎて、死を選んだ者たちへの愛と後悔。
今回はそれもほとんど描かれなかった。
だからはじめは肩透かしをくらったような気がしたのだ。
寂しさと共に。
でも春樹さんは、この3つの要素を捨てて新しい小説を書いた。
感情に溺れたいだけの、わたしのような古い読者は放っておけばよいのだ。
この小説の次に、村上春樹は何を書くのだろう。
もはや全く予想がつかなくなった。
そうではないだろうか。
なぜ悪を、セックスを、正義を描かなかったのか。描く必要がなかったからだ。
もっと冷静でもっと暖かい、大きな視野がそこにはあった。
正義があるのは悪があるからだ。
セックスを描くのは、個人と個人の特別な愛を描きたいからだ。
春樹さんはそれぞれの違いを乗り越えようと言いたかったのではないだろうか。
声高に自身の正しさを叫ぶのではなく
退屈でも地味でも
重なり合い、どこからどこまでが自分で
どこからどこまでが他人かわからなくなるような
感情的ではない
もっと強い精神力に満ちた
平和への思考の試み。
春樹さんは、壁で守られた街の中に
それを描こうとしたように思うのだ。
答えはいくつもある。
そう教えるように。