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ときどき日記(546)自分はもう駄目だと覚悟してしまった貴方に読んでほしい本

40年以上前、人生で初めて読んだ長編小説が五木寛之の「青春の門」だった。今でも連載が続いていて、当時の文庫十数冊を何日もかけないで夢中で読んだ。私のバイブルだったと言っても過言ではない。

その五木先生の「大河の一滴」が本屋さんに平積みで置いてあった。本に呼ばれた感じで購入した。
平成11年初版で46版(令和2年6月30日)の本だが、なぜか平積みで売っていた。

大げさかもしれないが、この本は生き方指南の本だ。

ぜひ貴方にも読んで欲しくなった。

何カ所か無断で転載しますので参考にして下さい。

□マイナス思考の極みから出発したゴータマは、少なくとも微笑みながら病で死んだ。その臨終の物語は、彼が自分の上に影をおとす樹々の姿を「世界はすばらしい」と讃えつつ自然に還っていったことを述べている。最大の否定から最高の肯定へ、マイナス思考のどん底から出発して、プラス思考の極致に達して世を去った人間だった。

□人間の一生というものはそれぞれが、かけがえのない一生なのであって、それに松とか竹とか梅とかランクを付けるのはまちがっているのではないか。
たしかに人間にとって、愛と正義と勇気と努力をもって世のため人のために尽くし、そして名誉や富や社会的な地位を得たり、あるいは科学上の大きな発明を成し遂げたり、大冒険を成功させたりする、そして世の中から拍手でヒーローとして迎えられるというのもすばらしいことではありますが、さして人間の価値とは関係がないのではないか

□他の人間とくらべて、自分の人生にコンプレックスをもったり、優越感をもったりすることは、まったく意味のないこと

□人間は一生、なにもせずに、ぼんやり生きただけでも、ぼんやり生きたと見えるだけでもじつは大変な闘いをしながら生きつづけてきたのだ

□無名のまま一生を終え、自分はなにもせず一生を終わったと、卑下することはないのではないか。生きた、ということに人間は値打ちがある。

□なにもやらなくてもよい、失敗した人生であってもよい、それはそれで、人間として生まれてきて、そして人間として死んでいく、そのことにおいて、まず存在に価値があるのだ

□そのときにはそのさびしさから逃げようとか、そのさびしさをごまかそうとかしてはならない。自分を欺いたりしないで、そのさびしさをまっすぐに見つめ、その自分の心に忠実にしたがえばよい。なぜならば、本当のさびしさというものは、運命がおまえを育てようとしているからなのだよ(親鸞)

□希望というのは、片方に絶望があって、絶望の深い闇のなかから一条の光がさしてくる。私たちはただただ明るい中に希望を求めるといってもむずかしい。

□一般的に喜びは人間の生命力を高めるけれど、悲しみは逆に低下すると考えられがちですが、じつはそうではない。本当に深く悲しむということは、感動することですから、喜ぶのと同じように人間の生命力を活性化し、免疫力を高める。

□大人の社会が、元気な人間、明るい人間しか認めないという立場をとるから、そうでない人間を子供たちは攻撃するのではないか

□悲しいときやつらいときには、うなだれて肩を落とす。深いため息をつく。そうすることによって、自分を照らす希望の光の存在を、影が教えてくれるということも、ありうる

□現実にはプラス思考だけでは救われない世界があります。そして、じつはプラス思考と対をなして、大きなマイナス思考という重要な世界がある。そのマイナス思考のどん底のなかからしか本当のプラス思考はつかめないというのが、私の考えかたなのです

□もう立ちあがれない、自分はもう駄目だと覚悟してしまった人間には、励ましの言葉などは上滑りしていくだけです。
がんばれと言われれば言われるほどつらくなる状況もある。
そのときに大事なことはなにか。それは<励まし>ではなく<慰め>であり、もっといえば、慈悲の<悲>という言葉です。
なにも言わずに無言で涙をポロポロと流して、呻き声をあげる。なんの役に立つのかと思われそうですが、これが大きな役割を果たすような場合があるのです

□市場原理と自己責任という美しい幻想に飾られたきょうの世界は、ひと皮むけば人間の草刈り場にすぎない。私たちは最悪の時代を迎えようとしているのだ。資本主義という巨大な恐竜が、いまのたうちまわって断末魔のあがきをはじめようとしている。そのあがきは、ひょっとして二十一世紀中つづくかもしれない。つまり私たちは、そんな地獄に一生を托すことになるのである。

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