”荒地の家族“を読んで
舞台の宮城県亘理町は、四方が開けた仙台平野の南に位置する
この地は、北東から吹き込む風が何か特有の感覚を彷彿させる
渇いた肌寒さ、それをもたらすのが、“荒地”なのか
震災の記憶は、おしなべて、われわれが共有している
それは、天災であり、そこに罪はなく、それは、運命である
では、それは、“宿業”なのか、そこは違うと捉えた
因果応報とは、結果や報いが自らにある考え方である
主人公“祐治”の心には、元妻“晴海”の存在が常につき纏う
“晴海”が亡くなったのはインフルエンザで、震災の後である
“祐治”の稼ぎの造園業は、日雇いに近い肉体労働である
請負先や稼ぎ仲間に恵まれず、日々いざこざに巻き込まれる
後妻の“知加子”は、流産を機に家を出てしまう
腐れ縁の稼ぎ仲間の“明夫”は、癌に蝕まれ自ら命を落とす
後妻の“知加子”の勤め先を訪ねては、接触を憚れる
おそらく、これが、“祐治”の“宿業”なのだろう
しかし、“祐治”は、その押せては寄せる禍いの中、生きる
“祐治”を突き動かす、心の支えは、息子“啓太”であり、“啓太”が“晴海”との残された絆になっているのであろう
著者のことばにある
“生は苦しい その苦しみのひとつに近しい人の死がある 死はつらく、思い出すことも辛い それでも傷口に触るように死を振り返る 共有した時間を繰り返すことで痛みが鈍化して行きいつしかその記憶が癒しになる”
そう、これは鎮魂歌ではなく希望への讃歌なのだと感じた
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