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【都知事選】石丸氏はポピュリストか?など

東京都知事選に出馬した石丸伸二への、石丸氏の2位が確定した後の日テレの取材を視聴して思ったことをつらつら書きました。メモ感覚で書いたので読みづらいかもしれないですが、すいません〜。

日テレの石丸氏への取材をみた(👆🏻この動画です)。石丸氏はインタビューされても、二位という快挙について喜びを見せることもせず、小池氏への敗北という結果への悲しみを見せることもしない。そうであるために、石丸氏が感想や手応えというものをメディアに聞かれても彼はそれを持たない、持っていたとしても公の場では発表しないスタンスであるゆえに噛み合わず、ディスコミュニケーションが生じる。オールドメディアを過剰に嫌悪する石丸氏の生み出すメディアとのディスコミュニケーションは他のインタビューやらにおいても顕著だが、この場合におけるディスコミュは一つ異なるレイヤーを伴っている。それは、石丸氏の「滅私」というレイヤーである。どういうことか。前述の通り、石丸氏は都知事選の結果への感情の露出を徹底的になくしている。それには、立候補者目線、政治家目線、「石丸自身」目線という香りを徹底的に消臭し、民衆のための滅私を突き詰め、民衆や支持者に一体化する、民意の一部と化するという目的が見える。ここで言う滅私とは、我がないこと、主張の軸がないことでは無い。滅私とは無私、無自己ではなく、民衆のしもべとなることを最優先とする姿勢である。滅私に徹し、民衆の総意にただ任せる。その姿勢は彼の会見時の発言からもありありとみえる。それに徹底することも彼の重要な個性のひとつなのではないか。少なくとも会見における「滅私」の様相はそれを感じ取らせるに十分だった。そしてそのような姿勢は、ポピュリストの定義と一部一致する部分があるが完全に一致する訳ではなかろう。民衆の意見に風見鶏のように付き従い、その実現を最優先とすることで支持を集めるのがポピュリストであろうが、石丸氏は、あくまで自分の主張の軸は保ったままに、その主張を「選択する市民」の意向に全て任せ滅私するという姿勢なのである。(逆に言えば、ポピュリストにさえなりきれていない中途半端なポピュリストであるともいえる)

彼はおそらく支持者の一瞬の高揚を得るために、「広島1区からの出馬」の可能性を口走った。石丸氏が言う通り、それは彼にとって「取りうる可能性のひとつ」に過ぎないのだろう。これら発言からも、石丸氏にとって場所は比較的どうでもよく、任意でよいということが分かる。東京へのこだわりはない。東京をとやかくすることが彼の至上目的では無いのであろう。では何が目的なのか…、それは分からない。ただひたすらポピュリストとしての仕事をまっとうすることか、支持者からの支持を増やしまくる事なのか、、、。本当は支持を沢山取り付けてから後の具体的な政策、ビジョンもあるのかもしれない。何が彼の目的なのか、「滅私」するの彼の姿からは民衆は実ははっきりとは分からないが、ただ彼は「奉公」してくれる人であると彼のブレない主張の軸を見て確信しているから、仮に分からなくても支持するのだろう。

ただ、「場所を選ばない」という姿勢は明らかにツッコミどころがある。その「どこでもいい」という姿勢はそれこそ彼が批判する「政治屋」のしぐさでは無いか、ともみれる。つまり、どこでもいいということは当該地域の住民のことについて心から考えているようには見えない→彼がしたいのは支持を得るための政治、政治のための政治では無いか、という流れが成り立つのである。
それを踏まえた上での、何故わざわざ都知事選に出るのか?という古市の質問は石丸のスタンスの矛盾をとらえていると言える。ネットで誹謗されているほどに頓珍漢な質問では無い。
しかしその後、石丸氏が質問の意図を理解できなかったのか、意図を理解出来ても返答に窮したのか、その質問にまともに答えることがもたらす危険さを感じ取ったのか、またもディスコミュニケーションが生じぐちゃぐちゃになって日テレによる取材は終了した。(私はYouTubeでそれを見たが、コメント欄は相変わらずカオスの様相でした)

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