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1.混乱の朝

「幾星霜の人々と共に・白駒池居宅介護支援事業所物語」

第1話「彼方の記憶」

  ☆「幾星霜」とは、苦労を経た上での、長い年月。いくとしつき。
 
 
 『 東京編 』

【今回の登場人物 薬師家の人々】
薬師太郎 75歳 アルツハイマー型認知症と診断 要介護1
薬師通子 73歳 太郎の妻 太郎の行動に翻弄されている
薬師順子 38歳 同居 旅行会社に勤務
 
 2019年夏
信州松本市の古風な喫茶店の壁に飾られている山の写真を、しげしげと眺めていた薬師太郎は、
「山はいいなぁ~ 槍ヶ岳か…、あきちゃんまた登りたいね。」
 と、向かいに座っている娘の淳子に声を掛けた。
「あきちゃん? 私は淳子よ。」
戸惑いながら返した淳子の言葉を、太郎は理解していないようだった。

1.混乱の朝

 松本市来訪の半年前
 薬師太郎は75歳。朝から2歳年下の妻の通子(みちこ)に外出用の服を着ろと言われ、どこかへ出掛けるのであろうと、言われるまま服を着てソファに座っていた。
太郎は家庭のことは通子に任せっきりの仕事人間だったが、ここ数年自分の記憶力の不確かさを感じていて、一つひとつの行動に不安を感じていた。
そのためか、自宅ではいつも通子にべったりとついてまわって過ごしていた。
特に最近は、常に通子の姿を視野に捉えていないと落ち着かない状況だった。
 
「今日はどこへ出掛けるんだ? 通子の奴、なんにも言ってくれない。」
太郎はいつもと違う朝の雰囲気に気持ちが落ち着かなかった。
ソファから立ち上がり、通子を探そうとしたとき、玄関から通子に呼ばれた。
太郎が玄関まで出てみると、家の前に大きな車が停まっていた。
その車のスライドドアが開き、若い女性が降り、運転手の男性も降りてきた。
「薬師さ~ん、お待たせしました。白駒デイサービスセンターです。お迎えに上がりました! 」
太郎には何のことやら理解できなかった。
「なんだこの人たちは? 何サービス? 一体何事だ? 」
太郎は答えを通子に求めた。
「お父さん、昨日も今朝も言いましたよ。今日からデイサービスに行くんですよ。」
通子はいい加減にしてほしいといった表情で太郎を睨んだ。
「知らん知らん、そんな話聞いてないぞ! 誰だいこの人たち? 通子も一緒か? 一緒に行くんか? 」
太郎の表情が著しく険しくなった。
太郎には何が何だかわからないのだ。車の人たちも何者かわからないし、車に乗る意味も分からない。そもそも通子が言っていることも、太郎には理解することが出来なかったのだ。
(つづく)


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