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26.幾星霜の経験を活かす

「幾星霜の人々と共に・白駒池居宅介護支援事業所物語」

第1話「彼方の記憶」

【今回の登場人物】
  立山麻里 白駒池居宅の管理者
  薬師太郎 サービス拒否の認知症高齢者
  薬師通子 太郎の妻
  松本深也 白駒デイサービスセンターの管理者
  徳沢明香 太郎の担当ケアマネジャー

失くしたと思う記憶 それは錯覚で、
  実は輝くような記憶が溢れているのかもしれない

 26.幾星霜の経験を活かす

 あまりにもすんなりと薬師太郎のデイサービスへの送り出しが終わったものの、本当にうまくいくのかどうか、薬師通子は気が落ち着かなった。
 しかし、デイサービスからは特に電話もなく、普段できなかった掃除洗濯に追われ、落ち着く暇もなく、夕方になった。
 朝と同じように松本と、もう一人若い女性スタッフと一緒に太郎が送られてきた。
 「薬師様着きましたよ。」
 若い女性スタッフに付き添われ、太郎が車から降りてきた。
 「ありがとね、様はいらない、薬師さんでいいからね。」
 太郎は女性スタッフにニコッと笑って答えた。
 「お父さん、お帰りなさい。お疲れさまでした。」
 通子が笑顔で迎えた。
 「ああ、帰ったよ。」
 少し疲れた声で太郎は答えた。
 「薬師様今日は貴重なご意見ありがとうございました。会社にとって、とても貴重なご意見いただきました。また次回もよろしくお願いします。」
 松本はそう言うと深く頭を下げた。
 「わかったわかった。またよろしく頼む。」
 さすがに疲れを感じたのか、太郎はそう言うと、家の中に入った。
 玄関に残った通子に、デイサービスでの様子を綴った連絡帳が松本から渡された。そして一言、
 「何とか続けて行けそうです。きっと大丈夫です。詳しくはこの連絡帳に書いています。」
 と言って、車に乗り込んだ。
 通子が松本たちにお礼を言い、見送った。
 そして今のソファーにドカッと座っている太郎に声を掛けた。
 「どうでしたか、久しぶりのお仕事は?」
 足を放り出してソファーに座っていた太郎が答えた。
 「どうもこうも、あんなにたくさんの人と話をしたのは久しぶりだからね。さすがに疲れた。」
 太郎はそう言うと、立ち上がり、
 「通子、お茶」
 と言った。
 通子は果たして次回もデイサービスに行ってくれるかが心配だった。
 「疲れたなら、もう今回のお仕事はおやめになりますか?」
 太郎の自尊心をあえて揺るがす言葉だった。
 「何を言ってるんだ。一回行っただけでやめるものか。あそこはな、注意しないといけないところがまだ一杯あるからな。通子、お茶」
 そう言うと、太郎はネクタイを緩めた。

 朝は徳沢明香がデイサービスの様子を確認してくれたが、今日一日どうだったかを直接話を聞くために、夕方、立山麻里は明香と共にデイセンターへ向かった。
 デイサービスセンターの松本深也によると、しばらくは様子眺めだったが、入浴施設を見せた時に、あれやこれやと指摘を受けたとのことだった。
 「日本人にとって、風呂はとても評価に影響する場所であること。落ち着いてはいれる雰囲気があるかどうかで、その温泉の成否が決まる。ここは今のところ落第だ。」と言われてしまったとのこと。
 しかし、その行き届いてなかったところがあったことが逆に薬師にはよかったみたいで、「ここの職場は改善のやり甲斐がありそうだ。」と、かなり前向きになってくれたとのことだった。
 昼食時は女性陣のテーブルになり、特に旅行の話になったときに、情報豊富な太郎は活発に話が出来て、楽しそうだったとのこと。
 しかし午後からのレクレーションでは、やはりそんな遊びやってられるかという感じで、そわそわとし始め、妻を呼んでほしい、ぼちぼち帰りたいと言って落ち着きがなくなったとのことだった。
 そこで旅行好きの若い女性スタッフが観光名所の話をしだすと、その女性スタッフに、「きみ、旅行会社で働いてみないか。」と声を掛けるほどだった。
 そのあとも昼食時に話をしていた女性陣とレクレーションが終了後にまた話をはじめ、何とか送迎時間の16時まで頑張ってもらえたとのことだった。仕事柄社交的なところが幸いしたようだった。
 とにもかくにも何とか一日目のデイサービスを、薬師太郎が無事終えたことに二人は安堵した。
 最初はVIP対応で迎えたデイサービス職員だったが、「俺は特別扱いは嫌いだ。普通に皆さんと溶け込んでこそわかるものがある。」と、他の利用者と共に過ごしたとのことだった。
 薬師太郎の人間性が垣間見られるものだった。
 しかし、麻里にも明香にも2回目以降どうなるか気掛かりだった。
 とりあえず、週2回のデイサービスだが、これで終わってしまったら元も子もない。

 そのあと、明香は薬師宅へ電話を入れた。
 「久しぶりに仕事をして疲れたそうですよ。」
 しかし、そのあとはいつものように通子について回っているとのことだった。
 「本人はまた行く気でいる」という通子の言葉に、デイサービスに順調に繋がっていけばと、明香は願うだけだった。
 二日後の2回目のデイサービスも、明香が危惧するほどのことはなく、呆気ないほど当たり前に、今度は送迎バスに乗って向かったとのことだった。
 この時も明香はデイサービスを覗きに行った。
 太郎と顔を合わすと、「槍ヶ岳さん来たんか」と言われるようになった。
 明香は結局自分の名前を呼んでもらえず、そのうちに「槍ヶ岳さん」が「やーさん」にと変わった。
 「若い女性に向かって、やーさんって… 」
 明香は心の中でぼやいたが、なんとかなりそうな状況に安堵した。
 どのような名前であれ、太郎が自分のことを覚えてくれたことが嬉しかった。

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