非合理な特殊解 18

夏子はインターホンを押すと、顔の筋肉を無駄に動かし、顔の強張りを和らげた。家の中の足音が段々と近付いてきた。玄関で靴を履いた音が聞こえてくると元気な笑顔を作った。
「エマ、ただいま。」
ドアから半分見えていたエマの顔が見る見る青ざめた。
「な、夏子!髪の毛どうしたの?」
「渋谷で髪切ってきた。斬新でしょう。」
夏子は靴を脱ぎながら、妙に得意気に髪を見せた。エマは手で口を押さえて暫く何も言葉が出なかった。しかし、夏子がリビングのソファに座り、あまりに自然にテレビリモコンをでチャンネルを変え始めるのを見て、エマの動揺は段々と治まっていった。
「夏子、渋谷って。まさか、こんなの美容室なわけないでしょう?西田なの?」
エマはソファの夏子の隣に座った。
「違うよ。自分で切ってみたの。前に一緒に行ったレコードが壁にびっしりのバーあったじゃない?あの近くの路地で。」
「は?路地?」
夏子はエマを驚かすのが面白くなってきた。
「実は西田が付いてきちゃって。髪の毛を出せって言うから、くれてやったわ。これで、もう後を付けてこないでって。言葉通じてるか分からないけど。」
「西田は?」
「昨日の事はあまり悪びれてもいなかったけど、髪の毛の束を顔に突き出した時は泣きそうになってた。」
夏子はその情景を思い出して苦笑いになった。
「夏子、髪の毛、、、。」
エマは夏子の髪を手で触れながら、顔を曇らせ、肩を落とした。
「中々の傑作でしょう。しばらくこれでいいわ。」
夏子は、面白い事が起こった後ように、さらに得意気に言った。
「でも、すごく手入れして大事にしてきたのに。」
エマは泣きそうになった。夏子は、夏子よりも夏子の身体を心配してくれるエマを思った。
「西田がニヤつきながら見せてよって言った時、イライラしてきたのよ。その瞬間に、もう髪なんて無くてもいいかなって思ったよ。」
「夏子。ごめんね。」
「エマが謝る事じゃないよ。」
「お風呂で少し切ってあげるよ。こんなギザギザな髪なんて。」
「ありがとう。でもさ、揃えちゃう前に、これはこれで面白いから写真撮ってもらえないかな。背中の方から。」
「うん。分かった。」
エマはカウンターに置いてある自分の携帯を手に取った。エマの携帯を見た時、急に夏子が言った。
「エマ、久々に絵を描かない?背中に。」
背中に絵を描いて遊ぶ感覚は、庭でやる花火のような感覚に似ていると夏子は思った。後に残るものではないが、その時は綺麗でワクワクして、写真を撮っておきたくなる。そして消えると寂しい。やる意味が無いようで有るような事だ。
夏子はこのギザギザな髪もエマの表情と一緒に一生忘れたくなかった。柔らかく、でもしっかりと記憶しておくには、エマと身体と絵で遊んでおくのが最善だと夏子は思った。
「そうね。うん。やってみようか。リクエストは?」
エマは声を弾ませて言った。
「私の横顔。写真を撮ったときに、大きな横顔の上に小さな横顔が乗っているようになるの。どうかな。」
「うーん、奇妙な写真になるね。髪のギザギザを生かすとしたら、右を向いている時の横顔ね。どんなのになるか分からないけど、やってみよう。」
「うん。」
それから2時間半後、奇妙な写真を何枚か撮った。
写真を撮った後、
「小さい横顔が薄いな。」
などと変なことを言い始めたエマは、小さな横顔の眉毛を濃く塗り始めた。
そしてまた写真を撮った。それは奇妙を通り越して気持ち悪い写真になった。
すると急にエマは何かを堪えながらトイレに駆け込んで行った。そしてドアが閉まるなりそこから大爆笑が漏れて聞こえてきた。
エマのその爆笑を聞きながら、夏子は自分で顔に色を塗り始めた。トイレから出てきたエマの腹筋を割ってやろうと思いながら描いていった。


その日の夜、夏子がいつものように出勤すると、珍しい事に、西田がまだ出勤していなかった。西田は夏子よりいつも1時間早く出勤する事が多かった。スタッフボードには、西田もいつも通りの時間に出勤予定になっていた。何かあったのだろうか、そう思いながら、夏子は今日担当するホスト名を確認していると、西田が平然とした様子で現れた。
「西田、遅刻!」
橋本が西田へ怒鳴った。
「すみません。銭湯行ってたら遅くなっちゃって。」
僕偉いでしょう?と言わんばかりの西田の言い方だった。怒られるより、褒められる事だと思っているようだ。夏子は西田の精神の異常さを改めて実感した。
「銭湯行った日は遅刻していいなんて言った事ねーよ。もういい。さっさと仕事しろ。」
橋本も西田を叱ってもあまり意味が無いとよく分かっているようだった。
「はーい!」
西田は、明らかに場違いに明るく元気にお返事をした。
「くく、ははは。アホか。」
西田の隣で夏子の向かいの席の神林が、西田を見下した軽蔑の眼差しで言った。

夏子は目の前にいる人達の空気感に馴染めないなと思いながら担当ホスト名一覧ページを確認した。この日は、Kyoko_Mizunoを担当させてもらえないようだった。表情にはあまり出してはいないが、内心夏子は相当に落胆した。

わずかに肩を落としながら、夏子はいつものように淡々と上から順に返信を返し始めた。

この日は紙の玉は飛んでこなかった。夏子がホッとしていると、パーテーションの上から、西田の指と八つ折りになったルーズリーフが落ちてきた。ルーズリーフを開くとこうあった。
『見てたよ。ボード見たり僕の席覗いてたね。僕のこと心配してたよね。』
読み終えて顔を上げると、遅刻した事も怒鳴られたこともやはり1ミリも何とも思っていない、それどころか今までに見たことがない天真爛漫な子供のような西田の笑顔がそこにあった。夏子は苦笑いで目頭を押さえながらこう書いた。
『はぁ?お休みを願ってました。それなのに(T-T)』
ルーズリーフを西田の方へ投げ入れた。するとすぐにまたそのルーズリーフが帰ってきた。
『嘘だな。それより、髪いいよ。』
西田が嬉しそうに頷いた。夏子は泣きそうになった。
『お手紙投げてこないで!(ToT)』
2人とも周りを気にしながら、頭を下げたまま、手だけでルーズリーフをパーテーションの向こう側へ落とした。
『仕事やめないで』
『君に関係ない。』
『仕事手伝うから。嫌いなホスト、代わりにやるから。』
西田になぜか捕まった感は辛くなってきたが、夏子は良い事を閃いた。
『それは嬉しい。ただやってもらうだけじゃ悪いから、交換しよう。Kyoko_Mizunoある?あったらください。』
『あるよ。2時に橋本さん休憩だから、そのタイミングで入れ替えてくる。僕に渡したいホスト名は?』
夏子は嬉しくなった。
『さおり(^^)/、LILIKO、ハル☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆よろしくお願いします。メッセージの内容が卑猥すぎて辛い。』
『なぜ3つも?ぼく損じゃん?』
『嫌なら別に無理して交換しなくていい。やめといてもいい。』
『やめとかない。』
『悩んでそうなメッセージある?ホストあったらちょうだい。』
『あんたやっぱりバカだな。』
『人助けと思おう。宜しく。』
『りょうかい。鈴木恵一何?このケンカ。人助けww』

夏子は思わず吹き出した。西田とまともなやり取りをしてしまい、そんな自分を夏子は心配になってきた。頭がおかしくなったのか。

AM2時になり、橋本とその周りの数人が財布を持ってオフィスを出て行った。西田は橋下の席に座り、ほんの十数秒でポストの入れ替えをした。

データを更新すると、Kyoko_Mizunoが管理ホスト名一覧に入っていた。
夏子はルーズリーフの下の余白に
『ありがとう。』
と書いて西田のデスクの方へ落とした。西田は今日のやり取りが全て書かれたそのルーズリーフを鞄に仕舞い込んだ。夏子はモヤモヤした。

夏子は早速、鈴木恵一のメッセージをを確認した。今日は2通来ていた。
21、鈴木恵一 :
馬鹿か?俺も知りたくなんかないね。
毎日いちいち返信してくるな。
そこ頑張るなよ。他行けよ。
俺はお前のこと可愛いがれない。無理。

22、鈴木恵一 :
当分もうこのサイト来ない。
俺二度とお前みたいなのに出逢いたくない。
毎日毎日、アホみたいな事言われてつまんない。
知ってる?毎月いくらくらいここに使うか。
何と3万。毎月3万払ってるんだよ。やめた。

夏子も2通返した。
23、Kyoko_Mizuno :
うんうん。分かった。
いつもとんでもない事を送るために
おかしなガマンばかりしなくていい。
もう懲り懲りです私も。
時間も体力もありあまるほど無い。

24、Kyoko_Mizuno :
私大体月に1万くらいですよ。
たしかに3万辛いです。
こんな返事は要りませんよ。
他に人いるし次行きます。

夏子は嬉しくなった。3月に会おうとしてくれているらしい。鈴木恵一はKyoko_Mizuno をサイトのサクラの男の子と思っている。3月に何を話すのだろう、と夏子は想像した。とにかくあと約1ヶ月半、3月までは仕事を辞められなくなった。

西田は、Kyoko_Mizuno の他に、Tomokoというホストも夏子の管理下へ変更していた。
夏子はTomokoをクリックした。
クリックした瞬間、西田にイラついてきた。
Tomokoはバツ3の風俗嬢という設定だった。殆どのメッセージが冷やかし。深刻そうな悩みもあちこちにあった。夏子も殆ど答えられそうになかった。ひたすらTomokoの色々な人との返信履歴を探して、使えそうな部分を切ったり貼ったりしながら何とか返信していった。


終業後、エレベーターの前で西田がニヤつきながら立っていた。
「どうだった?」
「どうだったじゃないわ。」
「ははは。どんな風に返した?森丸とかいう人にどう返した?」
「森丸!覚えてないよ。どれも大変だったよ。履歴にあった以前の返信を切ったり貼ったり。」
「なーんだ。つまんねーな。どんなこと書くか面白そうだったのに。」
エレベーターのドアが開き、夏子が乗ろうとすると、西田も一緒に乗ろうとしてきた。夏子は急に足を止めて言った。
「あのさ、私は君と2人きりでエレベーターに乗る気はない。先に帰っていいよ。」
夏子は西田にエレベーターへ入るよう促した。
「何で?」
西田は急にポカンとした顔をした。
「この前公園で私に何をした?」
夏子は西田を睨んだ。
「手を握った。」
西田は少し目を伏せた後、ニヤリと笑いながら言った。
夏子は少しだけ怖くなった。
「ナイフは?今日も持ってるでしょう?」
「持ってないよ。」
「本当かな。。」
夏子はエレベーターに乗り込むと、西田も続いた。
「それよりもさ、何か飲もうよ。」
西田はとても楽しそうだった。
「飲まないよ。」
「この前家へ連れてってくれるって言ったよね?」
「言ってない。」
夏子はため息をついた。
「いや、言ったよ。僕ちゃんと払うよ。本当だよ。今日給料日じゃん。だからいいじゃん?」
西田は夏子の着ているパーカーの裾を掴んだが夏子は振り払った。
エレベーターのドアが空き、夏子は急いで外へ出た。西田も後に続いた。ビルを出るとよく晴れた青空が、ビルの谷間に広がっていた。夏子は振り返って言った。
「ねえ西田君、どうしてそういうことになるのかよく分からないよ。お金を貰えたら人は喜んですると?」
「実際そうじゃないの?」
「そうじゃない。」
夏子は歩き出した。西田も横に並び夏子の顔を覗き込んだ。
「怒った?」
「怒ったというか。。。」
夏子は歩きながら、根本的な解決はどこにあるか考えた。この西田という人が付いてきてしまう理由と、それが無くなる方法を。

夏子は急に疑問を思い出した。
「そういえば、8歳くらいから親と会ってないって言ってたじゃない?親がいなくなって施設行くまでの数年、どうやって生きてたの?」
「姉ちゃんが稼いだ。」
「お姉ちゃん何歳上?」
「5歳。」
13歳の女の子が生活費を稼いでいたのか。弟の分まで。夏子は、西田姉弟のその当時の生活を想像した。そして西田の姉の事を思った。
「そういうことか。あなたのお姉ちゃんすごい人ね。」
「すごい?」
マクドナルドが見えた。
「西田君、マックならいいよ。コーヒー飲もう。」
「え、ああ、うん。」
西田は一瞬驚いていたが、嬉しそうに後に続いた。

2人はコーヒーを持ち席に着いた。西田はコーヒーに砂糖を3本入れた。
「僕甘くないと飲めないんだ。」
「じゃあ、他の飲み物飲めばよかったのに。」
「ああ、そうか。でもいいんだ。今日はコーヒー飲むから。」
西田は子供のように無邪気に言った。夏子は無邪気な生物を眺めながら数口コーヒーを飲んだ。

西田の洋服の左の襟が丸まっているのに気付いた。夏子は西田に襟が変だよと手で合図をした。西田はニコニコしながらそれを直した。夏子は余計な事をしたかもしれないと思った。
「あなたのお姉ちゃんはどうしてるの?」
「どうしてるって。。。多分生きてるよ。」
「元気なの?」
「しばらく会ってないから分かんないよ。」
「じゃあさ、今から会ってきてくれる?」
夏子がそう言うと、西田はとても驚いてコーヒーをこぼしそうになった。
「何で?」
「私が知りたいから。」
「何を?」
「これという事は無いよ。分かんない。でも明日様子聞かせてよ。仕事終わりにここで。」
夏子も何でこんな事を言ってるのかよくわからなかった。考えていたというより、本能的だった。
「うーん。そうだなぁ。」
西田は渋っている様子でコーヒーを一口飲んだ。
「嫌ならもう一緒にお茶しない。」
夏子はそう言うと、西田はもう一口コーヒーを飲んで答えた。
「分かったよ。行ってくるよ。」
「じゃあもう行こう。」
夏子は席を立とうとした。
「え、まだ座ったばかりじゃん!」
西田は子供がお母さんに駄々をこねるように言った。
「そう?何か。」
夏子は出来るだけ西田が好きそうなお母さんのようなキャラクターにならないように無感情で答えた。
「西葛西、一緒に来る?」
西田はまた子供がお母さんにせがむように言った。
「行かないよ。違う路線だもん。ホームまで送るよ。」
淡々と答えた。
「ああつまんない。」
そう言いながらも、西田は先に駅の方へ歩き出した。
多くの人が行き交う地下鉄の渋谷駅のホームで、夏子は西田の肩を二度軽く叩いた。振り返った西田から子供っぽい表情は消えていた。
「お姉ちゃんによろしくね。」
西田は頷くと、人の流れと共に電車に吸い込まれるように消えていった。地下鉄が立ち去ると、夏子は我に帰った。明日も西田へコーヒーを飲もうなんて、なぜ言ってしまったのだろうか。夏子はそう思いながら、人の流れを避けられるようにホームの端を歩いて、いつもの路線のホームへ向かった。足を踏み外さないように下を向いて歩いた。



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