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【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#006

#006 僕ら何も間違ってない

 五十崎が僕を呼んだのは、渋谷駅ガード下にある「天風酒蔵・やまがた」という居酒屋だった。国道246線玉川通り沿い、東横線の線路の真下にある。だから西口からでも東口からでもほぼ同じ距離なのだが、いつもの癖で東口に出ていた。
 いつもの癖というのは、僕が約一年前まで渋谷区東にある國學院大學というところに通っていたからだ。学生たちは大抵、渋谷駅東口から明治通りと246号線を跨ぐ大歩道橋を渋谷警察方面に渡って通学する。由紀子に声をかけ、初めて言葉を交わしたのも、その歩道橋の上だった。
 あのときの不思議な感覚は、今も僕の中にはっきりとある。初めて話す女の子という感じが少しもしなかった。まるで家族のような、僕らはしばらく理由があって離れ離れに暮らし、久しぶりに再会した兄妹のようだった。
「やまがた」は午後三時から開いてる、労働者と少々アル中気味なサラリーマン向けの酒場だった。短冊状のメニューが壁一面に貼り付けられ、焼き鳥と煙草の煙で黄ばんでいた。丸いパイプ椅子にデコラテーブル、その上にはアルマイトの灰皿がならべられている、そんな店だ。
 ひと月半ぶりに会った五十崎は、生ビールの大ジョッキを前にして髭面で座っていた。元々髭は濃い男だったが、バイトも辞めたので剃る必要もなくなったのだろう。坊主頭に近い短髪のもみあげが、顎髭と繋がっていた。
 僕も生ビールを頼み乾杯すると、ヤツは口元だけでニヤリと笑い、
「シナリオができた」と言った。
「そうか、読ませてくれよ」
「だめだ。まだ初稿だからな。決定稿を作る前に相談するよ、意見を聞かせてくれ」
 五十崎は自主映画作家だった。次の作品の製作費を稼ぐために、出版社でアルバイトをしていたのだ。立教大学の映画研究会時代には、雑誌『ぴあ』主宰の自主映画祭「ぴあフィルムフェスティバル」などで幾つか賞ももらっていたようだった。
 立教の先輩には黒沢清や周防正行がいた。石井聰亙が日大芸術学部で組織していた自主映画グループ「狂映舎」とも関係があり、特に石井の『狂い咲きサンダーロード』などの助監督も務めた松井良彦とは親しいようだった。松井は一九七九年に初監督作『錆びた缶空』を撮り、後に五年の月日を費やし、カルト映画の傑作『追悼のざわめき』を制作する。
「ずっとシナリオを書いてたのか?」僕は訊いた。
「いや、書いてたのは、バイトをやりながらも続けてたんだ。ただどうしてもシナハンしなきゃならない必要性にかられてさ、それで、会社を首になっていい機会だから、青森をリュック背負ってほっつき歩いてた」
 シナハンとはシナリオハンティング、脚本を書くに当たって行う取材旅行のようなものだ。五十崎は津軽の出身だった。そうか、やはり故郷を舞台にした映画になるんだな、と思った。
「面白かったぜ」ビールをぐびりと飲んで言う。
「あれは恐山に登った帰りだ。暗くなっちゃって宿を探さなきゃならないんだけど、まったくないんだ。ところがポツンと実に場違いな感じで立派な古民家風の旅館があってさ、コッチは汚い格好のバックパッカーだろ、ダメ元で泊めてくれないかって言うといいってことになってさ」
 大きな旅館だが、客は他に誰もいないようだった。そのせいか五十崎は五〇畳はあろうかという大広間に通され、その隅に布団が敷かれ寝ることになった。一日中歩き続けていたのですぐに眠りに落ちた。
「ところがさ、意識がなくなると夢を見るんだ。首吊りの夢だ。俺が寝てる大広間の向こう側に、女がぶら下がってる。そして眼が覚める。夢か、と思ってまた寝る。するとまた同じ夢だ。俺は霊とかそんなもんは一切信じないからな、ちくしょう、早く眠りたいぜって思うんだけど、意識が遠のくと、まるでアッチの世界に引き込むみたいにまた首吊りの夢だ。大広間の反対側、奥で梁から女がぶら下がってる」
 そこまで言って煙草に火を点け、一服してからアルマイトの灰皿に灰を落とした。
「それでもうしかたないから、帳場へ行って酒でももらってこようと思ってさ、浴衣のまま部屋を出たんだ。スリッパを履くときフト見ると、廊下の奥に、スリッパがもう一組揃えて置かれてた。夢の中で女がぶら下がってた脇の襖の前だ。部屋に入るときそんなものはなかった。それは確かなんだ」
 そして僕を上目遣いで見て、
「面白くないか?」とまた口の端で笑った。
「うん、面白いな」僕は答えた。
「ただし──」
「何だ?」
「僕ならこうする」
「いいな、聞かせよ」五十崎は言う。
「お前は恐山に登った帰り、とある古びた宿に泊まる。しかしなんとも嫌な感じがする」
「なんだ、嫌な感じってのは」
「わからない。強いて言えば怨念だな。その部屋には誰かの強い想いがある。消し去ろうしても人間の能力では決して消えない、人智を超えた意思の力だ」
「いいな、怨念てのは悪くない」五十崎はニヤリと笑う。「続けろよ」
「お前にそんな迷信めいたことは決して信じないヤツだが、それにしてもどうにも眠ることができない。しかたなく部屋に転がってる古雑誌をつらつらと眺めるわけだ。ゴシップだらけのくだらない女性週刊誌とかだよ。すると首吊り自殺した女の記事が眼に留まる。もの寂しい田舎の宿でそんな話は読みたくなんかない。だから別の雑誌を手に取る」
「なるほど、そっちにも首吊り自殺した女の記事が載ってるわけだ」
「そうだ。うんざりしたお前はさっき言ってたように帳場へ行って酒をもらって酔っ払って眠る。すると翌朝どうなった?」
「わかったぞ」五十崎は僕を指差す。
「翌朝どの週刊誌をめくってみても、首吊りの記事なんてどこにも載ってないってわけだ」
「悪くないだろ」
「ああ、そうやって幾つかの妄想が重なり合うと、俺が作りたい映画になる」
「だろう」僕は言った。
 そのあとはいったい何を話したんだろう? そうだ、五十崎は女の子の話をしたのだ。彼の映画研究会にはとある短大の女子学生が数名所属していた。そんな中のひとりが卒業後証券会社でOLをしていて、彼女の同僚二人とスズキくんを交え、僕らはトリプルデートをしたことがあったのだ。なぜそんなことになったんだっけ、と考えて、そうだ、あれは去年のクリスマスイヴだったのだと思い出した。
 前年十二月二四日の夕方、会社を終え麹町から長い坂道を三人で下り、女の子たちが見つけてくれた赤坂見附のお洒落な店で食事をした。たった三カ月ちょっと前のことだ。けれど遠い昔のように思えた。
 その中に僕らより三つ年上の女の子がいて、「あの娘はユーリのことが気に入ってるから、電話しろ。電話番号は聞いてあるから、今すぐそこの赤電話からかけろ」と何度もしつこく言ったのだ。

 そこからどういう流れになったのかは忘れたが、その夜は西武池袋線椎名町にある五十崎のアパートに泊ることになった。立教大学に通っていた頃から住んでいるという六畳一間のアパートだ。炬燵と八ミリフィルムのプロジェクターしかない部屋だった。壁には寺山修司の『書を捨てよ町へ出よう』のポスターが貼ってあった。
 二人で炬燵に足を突っ込んで横になりながら、僕らは初めて真面目に映画の話をした。バイトしていた頃は大抵スズキくんや国城が一緒だったこともあり、そういう機会がなかった。お互い子どもの頃からそれぞれ影響を受けた映画の志向は違ったが、我々は同い年で一浪して大学に入った同学年でもあった。だから同時期に強く影響を受けたものがあった。自主映画だった。
 僕らが浪人生活を送っていた一九七八年、京都府立医大在学の医大生だった大森一樹が松竹主催の脚本コンクール「城戸賞」の大賞を受賞し、そのシナリオ『オレンジロード急行』(一九七八年・松竹)を監督して商業映画デビューした。同年、石井聰亙が日活で『高校大パニック』を澤田幸弘と共同監督した。これはその二年前、石井が日大芸術学部在学中に監督した八ミリ映画をリメイクしたものだ。
 これを機に我々映画青年の世界は変わった。それまでなら映画監督になるには映画会社に就職し、何年もの助監督修業を経て監督に昇格しなければならなかった。けれどもうそんな必要はなくなった。誰もが今すぐにでもカメラを手にし、自分の作りたい映画を作れるのだ。大森一樹や石井聰亙は、そういった言わば大人たちの作った既存のシステムを変えた、革命的な若き映画作家だった。以降、長崎俊一、井筒和幸、黒沢清、森田芳光、犬童一心といった才能が続いた。
「なあ、もうシナリオ書かないのか」暗闇の中で五十崎は不意にそう言った。
「まあな」
「どうしてだよ」
「色々考えたんだ」と僕は答えた。
「もったいないよ。お前は才能あると思うぜ」
「ふん、俺のシナリオを読んだこともないくせに」と返すと、
「わかるんだ、そういうのは」と五十崎は少しムキになって言った。「わかるんだ。顔を見ればわかる」
「ホントかよ」
 僕は笑った。
「まあ、いいよ。でもな、だからってエロ本の編集をやることはないじゃないか、違うか」
 そして「この際だから言っとくけどな」と上半身を起こした。
「あの会社の連中は『クソ』だぜ。アサハラさんや島谷さんはいい人だよ。お前が新しくついた横西さんって人もたぶんいい人だろう。でもな、他は全員が『クソ』だ。なぜ『クソ』なのかわかるか? あいつらはやる前からあきらめてるからだ。戦うまえにあきらめてやがる。そのくせ理想を持ってるヤツを笑うことだけは得意だ。バカ以下だ。だから『クソ』なんだ」
 僕は眼をつむって聞いていた。五十崎が再び横になる音がした。
「それと電話な。電話しろよ」と言った。
「なんだよ」
「トボけんな。証券会社、二七歳」
「そのうちにな」僕は答えた。
「どうしてだよ、美人じゃないか。しかも二七歳、イイ女だ。オトナの女だぜ。あのな、男には女が必要なんだ」
 確かに、綺麗な女性だった。
「お前さ」と五十崎は言った。「本当はホモなんじゃないだろうな。夜中にいきなり襲ってきたりすんなよ」
 僕はしばらく答えずにいた。
「なあ、五十崎」
「うん?」
「俺がホモだとしても、お前だけは絶対に襲わない」僕は言った。「選ぶ権利というのは、万人にあるんだ」
 沈黙があって、五十崎は「ブハハッ」と笑った。笑って立ち上がり、部屋の隅の小さな冷蔵庫からビールを取り出したようだった。
「飲むか?」
「いや、俺はもういい」
 ヤツが缶ビールのプルトップを開ける音が聞こえ、
「なあ、ユーリ、もう一度聞くけど、なんだってエロ本の編集者になりたいんだ?」と言った。
 僕は答えなかった。話し出すと長くなりそうだったからだ。

 翌日は一〇時過ぎにアパートを出た。確か横西さんから直出で原稿取りに廻ってくれと指示され、出社は昼くらいでいいと言われていたのだ。若かった僕らは昨夜はかなり飲んだにも関わらず、少しの二日酔いもなく、起き出した途端に猛然と食欲を感じていた。なので五十崎が「ココはスープがこってりで美味いんだ」と太鼓判を押す、椎名町駅近くのラーメン屋へ二人で入った。
 店を出て「じゃあな」と手を振り駅へ向かおうとすると、五十崎が申し訳なさそうな顔をして僕を見た。
「なあ、ユーリくん。悪りぃけど、カネ貸してくんないか?」
「いいよ。いくらあればいい」
「五万くらい、あると助かるな」
 そんなわけで駅前にあった銀行に入り、キャッシュディスペンサーで五万円下ろして渡した。
「悪いな」
「いいよ。俺は実家暮らしだ。金は必要ないんだ」
 五十崎は改札口まで送ってくれた。そして切符を買って改札へ向かうと、僕の背中に声をかけた。
「いいか、ユーリくん。俺は今後いくら金に困っても、エロ本会社のバイトなんて金輪際しないからな」
 五十崎はそう言っていた。
「それから、俺は必ず映画を撮るからな。映画監督になる。そんでもってこのカネ、倍にして返してやるからな」
「ああ、期待しないで待ってるよ」
 僕はそう答えて田舎の駅みたいな椎名町の改札を抜けた。平日、遅い朝の池袋行き西武池袋線はガランとしていて、シートに足を伸ばして座り、バッグからレコーディング・ウォークマンを出してイヤホンをした。RCが流れた。清志郎は変わらず、「僕ら何も間違ってない、もうすぐなんだ」と唄っていた。

 僕が実際にインタビューでレコーディング・ウォークマンを使うのはそれから一年以上先のことになる。五十崎とは、以来一度も会っていない。
 あの日の夕方、渋谷駅ガード下の「天風酒蔵・やまがた」で彼が「できた」と言ったシナリオは、それから七年の月日をかけ十六ミリフィルムで自主制作され、一九八九年、『津軽 TSUGARU』というタイトルで完成した。室田日出男を主演に、青森県出身の津軽方言詩人・高木恭三の詩集「まるめろ」をモチーフにした、不気味でシュールな味わいのある作品だった。
 そして五十崎匠はあの日椎名町の駅で僕に宣言したように、映画監督になった。
 一九九二年には初の三五ミリ作品『ナンミン・ロード』(アルゴプロジェクト)を撮り、一九九九年には奥山和由プロデュースの元、戦場カメラマン・一ノ瀬泰造を描いた『地雷を踏んだらサヨウナラ』(シネカノン)を、二〇〇一年には田中美里主演で、夭逝した童謡詩人・金子みすゞの半生をつづった『みすゞ』(シネカノン)を発表した。その後もHAZAN(二〇〇三年)、アダン(二〇〇五年)、二宮金次郎(二〇一九年)、島守の塔(二〇二二年)と、傑作を世に問い続けている。

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