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【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#010

#010  レスポールが重たすぎたんだろ

 すべての写真のアタリを取り終えてトレススコープを出ると、いつの間にかアロハシャツに短パンという姿の中神E児が来ていた。
「なンだ、ユーリいたのか」
 とE児はいつものように大きな目玉をクルリと廻し、「日曜だってのにご苦労だなあ」と目尻を大げさに上げて口元の左側だけで笑って見せた。
「中神さんこそどうしたんですか」と訊くと、
「明日撮影だからさ〜、小道具買出ししてきたんだよ〜」と唄うように言った。
 エルヴィス・コステロ風のボストン眼鏡をかけ、茶色かがった顎髭に続くもみあげと口髭をはやした中神E児は、その芝居かがった口調と相まって、どこか日本人離れした雰囲気を持つ男だった。僕には当時のE児に、「いつも口元の片方だけで笑っている男」という印象がある。
 しかし、だからと言って彼が陽気な男だったわけではない。むしろ逆だ。中神E児には内面にある何かとても暗い部分を、その引き攣った笑顔で常に覆い隠しているという風情があった。そしてそんな僕の推察は、まんざら間違ってはいなかったと思う。
 高校を卒業後、十代の頃はモデル出身のエルザという美人歌手のマネージャーをしていたとか、その後は新宿の有名な輸入レコード店の店長になったが、趣味のポルノ雑誌収集が嵩じてビニール本の男モデルとしてこの業界に入ってきたという。そんな経歴が、中神E児という人間を必要以上にシニカルに見せていた。ちなみにE児という通称は英語の「イージー(easy)」からきている。「オレの人生はすべてにおいてイージー(お気楽)なのサ」というのが、彼の主張する基本的な生き方であった。ただしそれが本音であったとは、僕にはとても思えなかった。
 そもそもE児がデビューしたビニ本というのがモデル嬢が跨ぐ便器の中から顔を覗かせるというスカトロ物で、タイトルはズバリ『人間便器』。E児にはその撮影中、モデルが放出したオシッコをゴクゴク飲み干したという逸話があった。以来彼には「人間便器の中神」という好ましからぬ冠がついてしまうのだが、E児自身はその話が持ち出されるたび、「俺はさ、女のアソコに近づけるんなら、その程度のことはアッサリできるんだよ」とうそぶいていた。
 E児にはレコード店長時代若くして結婚したが、彼のポルノ趣味に妻が呆れて離婚されて以来女性に不自由し続けているというストーリーがあった。けれど僕が近くで見ていた限り、それは彼自身が作った自虐的な伝説みたいに思えた。なぜならE児は女の子、少なくともヌードモデルたちにはかなりモテていたからだ。
 彼がその頃JACK出版で主に作っていたのはいわゆる〈本番ビニ本〉という過激なモノだったが、何人かのモデル嬢がそういった撮影に応じた背景には、「相手がE児だから」という理由があったはずだ。「本番」、つまり撮影で男女が本当にセックスしてしまう、この時代それは大きなタブーだった。武智鉄二監督の映画『白日夢』で佐藤慶相手に大胆な本番シーンを演じ、愛染恭子が「本番女優」と呼ばれ社会的な事件(?)になったのは一九八一年、わずか三年前のことなのだ。
 ただ、僕はむしろそれ以上に、この編集部に通うようになってすぐ降武宏政がフト漏らした、
「Eちゃんはローリング・ストーンズのLPレコードをスチール本棚二つぶん持ってるんだ」という言葉の方が気になっていた。E児はザ・ローリング・ストーンズの、世界的にも希なレコード・コレクターだった。
 そのとき僕は間抜けにも「ストーンズっそんなにたくさんレコード出してたっけ?」などと思ってしまったのだが、レコードには日本盤だけでなく英国盤や米国盤はもちろん、ヨーロッパやアジア各国でプレスされる様々な海外盤があり、さらにはジャケット違いや音源違い、ミックスの違いなど様々なレア物がある。世の中にはそれらを高額な値段で手に入れ収集する、レコード・コレクターという人々が存在するのだと初めて知った。
 そしてポルノ雑誌でもストーンズでも本番ビニ本でも、一度何かに入れあげてしまうとトコトンまで突っ走ってしまう、そんなE児の極端な性格というもものが、彼を時にシニカルに自虐的にしてしまうのではないかと感じていた。だたしそんなふう確信するのは、もう少し先の話になるのだが。

 JACK出版の4LDKフロア、E児はさっきからその一番奥の衣裳部屋件ビデオ室で、明日の撮影で使うモデルの下着やらローションやら、バイブレーターなんかを用意しているようだった。そこは四畳半の和室で、隣には社長のクロサワの社長室があった。社長室とはいえやはり四畳半の洋室で、デスクと電話があるだけだ。
 その手前、流しの前には降武の大きなデスクがあった。そこはリノリウム床のダイニングキッチンであり、つまり降武は言わば台所で仕事をしていたわけだが、南京大虐殺などの死体写真から海外のスカトロハードコア雑誌、さらには中世ヨーロッパの拷問機具など大量の資料を扱う『ビリー』を作るには、その場所が最もゆったりしているスペースでもあった。
 南側の最も広い八畳の洋室には二つの大型キャビネットがあり、そこにはJACK出版の財産とも言えるヌード写真のポジが、E児のコレクターらしい律義さで整然と整頓されていた。E児のデスクはその隣で、背後の小さな机を臨時雇いの僕が与えられていた。
 そして窓際には大橋という編集者のデスク。E児はひとつの雑誌に専業で関わることはなく、コンパル出版というところの下請けで月に一冊ビニール本の制作をしながら編集部全体の撮影、そしてモデル集めを主に担当。大橋は新和出版の『スーパージャック』という雑誌と暗夜書房の風俗誌『ビート』の編集をかけ持ちでやっていた。
 降武がブーツをガチャガチャと慌ただしく脱ぎながら入って来て「ユーリ、俺に電話なかったか?」と訊き、それにはE児が衣装部屋から「サワナカさんからあったよ。六時に『しみず』で待ってるって」と大声で答えていた。「しみず」というのは新宿東口の喫茶店だ。隣にある「じゅらく」と並んで、編集者とカメラマンがヌードモデルと撮影の待ち合わせに使うエロ本業界御用達の場所だった。
 降武は相変わらず真夏だというのにコーデュロイのジーンズにジャケットを着ていて、二人とも顔中髭だらけなのは同じだが、アロハと短パン姿のE児とはあまりにも対照的だった。
 降武はコダックのエクタクロームフィルムを冷蔵庫から取り出し──フィルムは品質を保つため低温で保管するのだ──カメラバッグにカメラと共に慌ただしく詰めながら「ユーリ、俺はこれから『ビリー』の取材だから、『ボッキー』の方進めとけよ」と言った。僕が慌てて、
「フルタケさん、オレ、もうすぐ映画のページ終るんですけど」と声をかけると、
「少年倶楽部にキョウサカのレイアウトが三本上がってるから、その原稿書いとけ」と言って飛び出していってしまった。E児が衣裳部屋から顔を出して「ユーリ、少年倶楽部行くんならアスカさんがビニ本の表紙上げてくれてるから、ついでに引き上げてきてよ」と言った。

 JACK出版に出入りするようになって驚くことはたくさんあった。それはまず降武や大橋が何誌もかけ持ちで雑誌をやっていることであり(降武に至っては増刊号を含めると三誌も四誌も作っていた)、中神E児という希有な個性でもあったのだが、何よりエロ本の世界に「グラフィックデザイナー」というものが存在するということだった。JACK出版は代々木のマンションから歩いて約五分ほど、南新宿駅の近くに「少年倶楽部」というデザイン分室を持っていて、飛鳥修平と四ツ谷正隆という二人の社員デザイナーがいて、もう一人フリーランスだが恭坂凉祐というデザイナーが机を置いていた。
 飛鳥と恭坂は「九鬼」でビニール本を作っていたそうだ。麹町の出版社にいたとき、編集部にあった九鬼のビニール本を見て、僕は心底驚いた。そのデザインはポルノというよりアートだった。それが飛鳥たちの手によるものだったのだ。
 少年倶楽部は当時ではまだ珍しかったハイテックなオートロックの高級マンションで、フローリングの床に観葉植物、大きなライトテーブルが三台置かれ、FMラジオで小さな音で音楽が流れる中、三人のデザイナーが仕事をしている図というのは、まさに八〇年代を象徴するお洒落な風景だった。だからその場所に原稿取りに行くのは、僕にとって秘かな楽しみでもあった。
 また、飛鳥も恭坂もそのデザイナーという職種のせいかどこか浮き世離れしたところがあり、いつも忙しそうに駆け回っている降武と違って、ワンテーマごとデザインしていくという仕事をまるで趣味のように楽しんでいる雰囲気があった。
 四ツ谷は僕より若い二一歳になったばかりの背の高い男で、夏は黒いスリムのジーンズに無地の黒Tシャツ、冬はそれに黒の革ジャンを羽織るだけという常に黒ずくめの服装をしていた。またデザイナーのかたわら、東京のアンダーグラウンドな音楽の世界では有名な工藤冬里というミュージシャンとバンドをやっているという、これもまた僕の知らない魅力的な文化圏を背景にしている人物だった。
 そして何よりこの三人のデザインというものが、圧倒的に洗練されて美しかったのだ。そう、あの時、麹町のギャンブル会社へ向かうひとときの幸せな時間、上智大学の先の山王書房で見つけた『ビリー』に僕が惹かれたいちばんの理由は、このデザインだったのだ。
 それにしても若い会社だった。社長のクロサワと大橋が同い年で二九歳、飛鳥とE児がその二つ下の二七歳、降武と恭坂は僕よりひとつ上の二五才。降武やE児が顔中髭だらけにしていたのも、ファッションだったり不精だったりもあるのだろうが、できるだけ若く見られたくないというのがあったのではないか? 少なくとも降武は取材の場で、そして新宿二丁目辺りの酒場で、実年齢より老けてみられることで、年上の編集者や文化人風の人々と対等に接していた。

 その日僕が南新宿駅近くの少年倶楽部に行ってみると、日曜日だったせいもあって飛鳥も恭坂も四ツ谷もいなかった。そして飛鳥と恭坂のライトテーブルの上に、彼らの出来上がったレイアウトが整然と置いてあった。僕は飛鳥の机の上に置かれたビニール本用の表紙のレイアウトにそっと手を触れ、しばし言葉を失った。
 寸分の皺もヨゴレもないピンとした方眼紙に、〇・五ミリ3Hの硬質なシャープペンシルで引かれた線、文字のアタリを正確にトレースしたロゴタイプ、表紙用のヌード写真を引き伸ばし機でかたどったアタリはまるでデザイン画のようで、色とりどりのボールペンで細かく書き込まれた色指定は、そのレイアウト用紙そのものが一枚の作品のようだった。
 麹町の会社にいた頃、僕は編集者とは漠然とレイアウトその他デスクワークをする人間だと思っていた。しかし、こうして飛鳥のデザインを目の当たりにしてしまうと、そんな考えはアッケなく消えた。それに加えカメラを抱えて取材に飛び出していった降武、どこかからかモデルを調達してきて撮影を組むE児、どちらも僕が漠然と想像していた編集者の姿とはまったく違っていた。
 飛鳥と恭坂のレイアウトを編集室に持ち帰った僕は、降武に言われたように夜までに原稿を三本書いた。結局のところ今の僕にできることは、原稿取りやトリミングといった雑用を除けば、原稿を書くことしかないいのだ。一〇時過ぎになって降武はカメラバッグを抱え戻って来て、「原稿書けたか?」と聞いた。僕が原稿用紙の束を渡すと、降武はそれをペラペラとめくり、
「フーン、お前原稿書くのだけは早いな」と少しだけ関心したように言った。そして「まだ書けるよな。終電何時だ?」と尋ね、「十二時過ぎですけど」と答えると、
「よおし、もう一本書け。次は『ビリー』だ」と嬉しそうに笑った。今思えばそれが僕にとって、暗夜書房のエロ本に関る最初の瞬間だった。

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