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【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#002

#002 九月になったのに

 その日は土曜日で、正午を過ぎると社内にはいつものように競馬中継のファンファーレが鳴り響いていた。特に仕事は与えられていなかったので、自分の机で『編集ハンドブック』を読んでいた。するといつものようにノミ屋に電話をかけまくり、「まったく土曜日は仕事にならんなあ」などと嬉しそうに笑っていた電球頭の上司が、ふと僕の存在に気づいたといった感じで声をかけてきた。
「キミはギャンブルはやらないのか?」
 やらない、と答えるとあからさまに不快そうな顔をして、「面白味のない男だなあ」と言った。台所で、殺すほどでもない小さなゴキブリを見つけてしまったような目だった。
「給料何に使ってんだよ、どうせ彼女とか気の効いたのはいないんだろ。風俗か?」
 性風俗には行ったことがないんですと答えると、上司は「おいおい、だったらせんずり専門かい。情けねえなぁ」と笑って去っていった。
 僕はイヤホンを耳に付け『編集ハンドブック』の続きを読み始めた。レコーディング・ウォークマンからはRCサクセションが流れた。清志郎は「九月になったのに」という曲を唄っていた。セカンドアルバム『楽しい夕に』に入っている。
 九月になったのに何も変わらない、いいことなんてありゃしない、相変わらず蒸し暑いし、相変わらず夜は眠れないという気怠く絶望的な歌詞を、アコースティックギターで怒りにまかせるようにマイナーコードをかき鳴らし、清志郎は絞り出すようにシャウトしていた。

 昨年の冬に別れた、恋人の由紀子のことを想った。
「なあ、由紀子、ここは本当に最低のところかもしれないぜ──」
 そう、口に出さずに呟いてみた。
 大学の卒業がいよいよ現実味を持って迫ってきて彼女と別れることになったとき、僕は自分が最低なヤツだと思った。だからどんなに最低の場所であっても、そこからやり直してみようと思った。もっとも、どんなに『アルバイトニュース』で探してみても、編集経験のない僕を雇ってくれるのはこの会社くらいしかなかったのだが。だけど──、それにしてもここは想像以下だ。
 五十崎が原稿取りから戻っきて、怒ったような顔で「イヤホンを外せ」という仕草をした。
「なに?」と訊くと、小声で「スズキくんがやっぱり首になるらしい」と言った。
「今、島谷さんから聞いた」
 島谷さんというのは五十崎の上司だ。数日前から途中採用の新入社員が二人入ってきていた。
 雑誌がよく売れて業績の上がっていた会社は、幹部候補生になれるような人材を正社員で採用し育てる方針に転換したようだと噂されていた。だからアルバイトの中から最低二人は首になるだろうと言われていたのだ。
「俺もヤバかったらしいんだけど、島谷さんが俺がいなくなると困るって言って反対してくれたらしい」
 五十崎はそう言っていた。当時のエロ本系の月刊誌は、編集長一人にアシスタント一人という少人数で作るのが普通だった。バイトとはいえ、やるべき雑用は多い。せっかく仕事を覚えさせたアシスタントを一方的に首にされ、またズブの素人を入れると言われても、編集長としては迷惑するだけなのだろう。

 スズキくんが辞める日になり、アサハラの主催でささやかな送別会が開かれる事になった。場所はよく連れて行ってもらった、四谷しんみち通りの地下にある中華屋だった。
 かつて某軟弱私立大学でブントの副委員長だったという団塊世代のアサハラは、アジ演説風に「お、俺は、こ、こういう、か、会社側のオーボーを断固ユルさんぞーっ」と力み返って叫んだが、興奮すればするほどどもってしまうのであまり気勢が上がらず、国城と五十崎が「まーま、アサハラさんそんなコトはイイから、ぐぅーっと飲んじゃってぐうっーと」と言って紹興酒をグラスに注いだらいつもの宴会になった。
「スズキくん、これからどうする?」
 僕は言った。
 スズキくんは飲み屋でも相変わらず律義な感じで背中をピンと伸ばし、ビールを飲んでいた。
「まっ、また求人誌を毎日買って編集の仕事を探す生活が始まるだけだよ。たださ──」
 とスズキくんは少し間をおいた。
「迷うのは今のボク程度の経験で〈経験者〉って言えるのかな? 経験がないっていうとまた今までのような仕事しかないワケだろ、それじゃ同じことの繰り返しだもんね」
 確かにスズキくんの言う通りだった。いくら『編集ハンドブック』などを読んでも、印刷に関する知識や編集の技術は学べなかった。またエロ本の会社にアルバイトでいたということが、他の出版社に入る際に有利になるかどうかも大いに疑問だった。誰かが「ああ、もう終電ないよ」と叫び、アサハラが「よおーし、タクシーで俺んち行くぞー」と言った。
 アサハラは数年間子連れの元人妻と付き合っていて、二年前にめでたく結婚して清澄白河にマンションを購入したものの、僕らがバイトに入る少し前、どういうわけか奥さんが子どもを連れて出て行ってしまったらしい。だから終電がなくなると、よくその妙にガランとしたマンションに泊めてもらい雑魚寝をした。国城が「じぁあ、アサハラさんちでまた飲み直しというコトでひとつ」と言い、僕らはゾロゾロと店の狭い階段を登ってしんみち通りに出た。
 一九八二年の九月にこの会社にアルバイトで入った。あれから三カ月と少しが過ぎた。十一月の初旬、寒い夜だった。

 さて、このあたりで自己紹介をしておこう。こうしてこの物語を語っている僕について、だ。
 僕の名は優梨理夏(ゆうり・りか)。リカなんて女の子みたいな名前だけどもちろんレッキとした男子だ。前にも言ったけど歳は二三歳。もうすぐ二四になる。友だちはみんな僕のことを「ユーリ」と呼ぶ。「リカ」と呼ぶのは家族をのぞけば由紀子だけだ。でも、彼女はもういない。だから君がもしも僕と出会うようなことがあったら「ユーリ」と呼んでくれ。
 どういうわけで僕がこうして袋小路みたいなエロ本の出版社にいるのか、そいつを語り始めるとちょっとばかり長くなる。ただ僕が今なぜこんなことを語っているのか、それは一九八〇年代のある時期、「エロ本」と呼ばれたとても先端的なメディアがあったということを書き残しておきたいからだ。

 というのもまず八〇年代とは「雑誌の時代」だった。ここで言う雑誌とは『文藝春秋』のような総合誌じゃなく、もちろん『週刊新潮』や『週刊文春』に代表されるメジャーな週刊誌のことでもない。もっとマイナーでインディペンデントな雑誌のことだ。
 僕は一九五八年生まれだから、七〇年代ってヤツを丸ごとティーンエイジャーとして過ごした。そいつはまるで水をぶちまけられた夏休みの校庭みたいに、すべてを吸収してしまう年頃だ。そもそもそれ以前、一九六五年に矢崎泰久による『話の特集』が創刊され、六九年には中村とうようや田川律によって『ニューミュージック・マガジン』が生まれていた。そして一九七三年に植草甚一責任編集による『ワンダーランド』(三号目より『宝島』と改題)が始まる。その後渋谷陽一が松村雄策や岩谷宏と共に『rockin’ on』を作り、一九七六年には椎名誠の『本の雑誌』が創刊される。どれもが大手出版社とはまったく縁のない、まさに手作りのメディアである。僕らはこういったインディペンデントなカルチャーに徹底的に影響を受けた。つまりはドゥ・イット・ユアセルフ(Do It Yourself!)、やりたいことがあるなら社会に組み込まれる前に自分でやってみな、というわけだ。

 そしてもうひとつ、八〇年代は写真の時代でもあった。一九七四年に創刊された小学館の雑誌『GORO』、篠山紀信が「激写」と名づけられたシリーズで山口百恵の写真を発表して以来、グラビア写真とは単にモデルやアイドルを可憐に美しく撮るだけのものではなくなった。それは女性、特に一〇代の少女の持つ不可思議さから神秘性までを、日本という風土の持つ独自の景色を背景に、果てしない情緒性を持って表現するサブカルチャーとして成立したんだ。
 続いて一九八〇年になると篠山紀信をメインに、写真の新しい在り方を打ち出した雑誌『写楽』が小学館より創刊される。これには沢渡朔、操上和美といった篠山に続く写真家が作品を寄せ、さらに『写楽』に影響されたのか講談社からは『DELUXEマガジン』、学習研究社からは『Momoco』といったアイドルグラビア誌が続き、野村誠一、小澤忠恭らが斬新な写真を発表していった。
 でもね、そん中で実は最もラディカルで先端的なスタイルを持っていたのが、「エロ本」と呼ばれたマイナーなヌードグラフ誌だったんだ。ハダカを魅せるのはタレントではない、ごく一般の一〇代後半から二〇代前半の少女たち。彼女らはヌードモデルと呼ばれていた。カメラマンも先に挙げた人たちと比べれば全員がまったく無名だったけれど、そのぶん突き抜けたエロスと女の子たちの醸し出す情緒、セックスというものにまつわる無限の魅力を追求していた。ヘアーの解禁なんて誰も想像しえなかったその時代、編集者たちもモデルの陰毛を剃ってギリギリの表現をするなど、過激な手法も厭わなかった。

 誤解してほしくないのだけれど、それはポルノグラフィという意味だけではない。大手の出版社には決してできないラディカルで斬新な方法論をもって、スクエアな社会に対してゲリラ的な異議申し立てをしてたんだ。六〇年代から七〇年代にかけて、高倉健や菅原文太主演のヤクザ映画や、若松孝二、山本晋也らが手がけたピンク映画が若者たちにカルト的な支持を受けた。それはとりもなおさず彼らが既成の社会に違和感を持ち、やるせない疎外感を抱いていたからだ。小便臭い場末の映画館の暗闇でスクリーンに映し出される暴力とセックスだけが、彼らに共感を与えたんだ。
 同じように紀伊国屋書店や三省堂といった大手の書店では決して置かれず、街の小さな本屋の、しかも人目につかない場所でひっそりと読み手を待ち続けるエロ本もまた、孤独や絶望を感じている若者たちから密かな支持を受けていた。さらに街角に置かれた寂れた自動販売機で売られる通称・自販機本や、当時は「大人のおもちゃ屋」と呼ばれたアダルトショップなどで売られるビニール本は、書店への流通を司る取次を通さないぶんだけ、より過激で自由な表現を手に入れていた。
 自販機本出版社のひとつ「エルシー企画」の編集局長だった佐山哲郎という人物は、自身が編集長を務める『X-MAGAZINE』という雑誌の裏表紙に、「もう書店では文化は買えない!」というキャッチコピーをつけた。一九七八年のことだ。その頃僕は大学一年生で、強い衝撃を受けると共に「僕だって自由に生きられるかもしれない」と、不思議な開放感に満たされたものだ。
 その少し前、ニューヨークではパティ・スミスやテレヴィジョンが登場し、ロンドンからはセックス・ピストルズが生まれていた。そう、僕にとってエロ本とは、雑誌のパンクだった。そこにこそ自由で解放された魂があると信じたんだ。でも──、

 ここまで読んでくれた君たちなら、現実はまったく違ってたってわかると思う。僕がヌードモデルという野良猫みたい自由で可憐な女の子たちと出会い、写真と雑誌メディアの持つ本当の可能性に触れるのは、もう少し後のことになる。一九八二年の晩秋、僕は落盤事故で閉じ込められた炭鉱夫が暗闇で酸素がなくなっていくのに脅えるみたいに、見えるはずもない遠くの光を探し続けていたんだ。
 RCサクセションの「九月になったのに」は、前半は唄の主人公の独白が続くのだが、ラストはおそらくかつて付き合っていたであろう女の子への手紙になる。清志郎は答えてくれるはずもないであろう元の恋人にこう問いかけていた。そちらは九月になりましたか、それとも九月はまだですか、と。
 僕は冷たい四ツ谷しんみち通りに立ち、五十崎や国城たちがやけくそのように酔っ払って歩くその後ろ姿を眺めていた。そして、由紀子にもう一度問いかけてみたんだ。
 ねえ、君はどうだい、上手くやってるかい? こっちは九月どころか、十一月になっても相変わらずだぜ、と。

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