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【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#005

#005  金儲けのために働くなんて

「君に〈覗き部屋〉をご馳走してやろう」と二人でぼったくりの店を迷い込んでしまった島谷さんの下には、結局たったひと月しかいなかった。「五十崎くんの代わりに頑張ってもらわなきゃならないからな」と言ってもらったのだが、翌月には島谷さんが桜庭編集室に人事異動になってしまったからだ。ただ、僕の方は雑誌も同じで座る席も替わらなかった。それまでは四階にいて別の雑誌を作っていた横西さんという人が、新しい編集長としてやってきた。
 横西さんは小柄な体躯に伸ばしっぱなしで横分けの長髪。ちょっと出っ張り始めたお腹にヨレヨレのジーンズを穿き、真冬でもサンダル履きで、尻ポケットに競馬新聞をつっ込んで出勤してくる飄々とした人物だった。
「なあ、ユーリくん、エロ本ってのは若い人のモノだからさあ」
 というのが、横西さんの口癖だった。とは言え横西さんは当時、まだ三〇代半ばを少し過ぎただけだったと思うが。
「だから俺はキミの若い感性が欲しいのよ。編集の技術は、俺がちょこっとつづ教えてやっから、なっ」
 僕は、この人から言わば編集のイロハを教わった。
 横西さんはまず、僕に印刷所から戻ってきた版下や写真をキチンと整理しろと言った。版下とは写植文字を貼った台紙のことで、写真と組み合わせて大判のフィルム化される。これが製版フィルムだ。輪転機などの大型印刷機に付けて紙に印刷していく。
 すべての原稿を入稿し、文字校正、色校正が終わると下版となる。これは印刷用の製版フィルムが製版の現場に下るから、「下阪」と呼ばれる。そこからは完全に編集の手から離れ、印刷、製本の過程に移っていく。
 こうして雑誌ができあがると、編集部には印刷所から縦五〇センチ横一メートルほどの大袋が戻ってきた。そこには版下、製版フィルム、レイアウト用紙、文字原稿、イラスト、ポジフィルム、紙焼き写真等が入っている。それを整理するわけだ。
 当時のアダルト誌は、一度使った製版フィルムを再利用して、「ポジ本」と呼ばれる増刊号を作ることが多かった。例えば巻頭のカラーグラビア八ページだけを八つ合わせ、四ページぶんの表紙(表紙の表裏と裏表紙の表裏で四ページになる)を作れば、計六八ページのヌード写真集ができてしまう。これなら新たな編集経費を一切使わず制作できるという手堅いビジネスである。ゆえに製版フィルムはページの内容を記した上で保管しておく。
 版下とレイアウト用紙は特別なことがない限り捨ててしまう。イラストや劇画の原画は作者に返却する。原稿用紙に書かれた文字原稿は、官能小説誌などの場合は作家に返却するが、ライターや編集者の書いたものはゴミ箱行きだ。そして使用した写真は二次使用、三次使用できる大切なものなので、専用のバインダーにカメラマン名、モデル名、撮影場所、内容などを記して専用の棚に並べていく。
 内容というのは単体(モデル嬢が一人で写っているもの)か絡み(男のモデルが女性と絡むもの)か、あるいはレズ、乱交、企画(例えばナース服を着て診察所を舞台にしたもの)など。ちなみに現在のアダルトビデオでも単体作品・企画物、単体女優・企画女優という言葉が使われるが、これはヌード撮影用語の名残だ。
 そうやって必要なものと不要なものを分けていくうちに、何が重要かがわかってくる。そして何よりそれまで『編集ハンドブック』をいくら読んでも今ひとつ飲み込めなかった印刷というものの工程が、不思議なほど鮮やかに理解できるようになったのだ。
 そしてもうひとつ、使用済みのレイアウト用紙を新しくできた号のページと付き合わせれば、色指定がどのようになされるのかがわかってくる。カラー印刷は基本四色で行われる。赤(マゼンダ=M)・黄(イエロー・Y)・青(シアン=C)・黒(ブラック=K)の四色である。黒を「K」で現すのは、「Key plate(基準となる版)」の意だからだ。デザイナーは色を「Y80+M60+C20+K20」などと指定するが、それが実際どんな色合いになるのかが理解できるわけだ。
「練習だ」と言って、横西さんは簡単でさほど重要でないページ、例えば読者のお便りコーナーだったり編集後記などから、僕にも少しずつレイアウトをやらせてくれるようになった。以来僕は会社のゴミ箱をあさり、気になったレイアウト用紙があれば引っ張り出して眺めるようになった。そうやって他にも文字に縁を付ける方法、写真の調子を落とす指定のやり方などを覚えていった。

 横西編集長は自由人でもあった。この会社の人間は競馬や麻雀に夢中になるももの、基本的には一日中デスクにへばりついて原稿用紙に赤ペンなどを走らせる者が多く、原稿取りなどの用事なしに社外へ勝手に出歩くのははばかられる雰囲気があった。けれど横西さんは仕事に煮詰まると、
「よし、ユーリ。茶店行くぞ」と僕を誘った。
 いいんですかと訊くと、
「いいんだよ、会社にいると息が詰まる」と競馬新聞を尻ポケットに突っ込んで編集部を出ていった。
 麹町は赤坂見附・永田町方面にかけて、急で長い坂道になる。その下りかけたところにある「グレース」という店が横西さんのお気に入りだった。
 白壁に濃い茶色のチーク材を使ったシックな内装で、大きなガラス窓にはブラインドが下げられ、穏やかな秋の陽射しがコーヒーテーブルに柔らかく差し込んでいた。二〇代後半から三〇代前半と思われる姉妹が二人で経営する喫茶店だった。
「二人とも美人だろう、俺はこういう店を見つけるのが上手いんだよ」と横西さんはちょっと得意そうに笑った。
「俺の家の近所にもいい飲み屋があるんだ。今度連れてってやる」
「西荻ですよね」僕は言った。
 福島県出身の横西さんは、大学生の頃から長年中央線の西荻窪近辺に住んでいた。
「おお、『真砂』ってとこだ。酒も食い物も美味いぞ」
「えっ? そこって東海林さだおさんの行きつけのお店じゃないですか」
 驚いた。僕は学生時代から東海林さんのファンだった。「真砂」は『ショージ君のにっぽん拝見』など、一連のエッセイに度々登場する店であり、椎名誠さんの著書にも「東海林さんに誘われ、『真砂』という出てくる料理がすべて旨いというカンドー的な居酒屋へ行った」という記述がある。
「なんだ知ってたのか。俺はさ、『真砂』の草野球チームで東海林さんと一緒なんだよ。東海林さんはセカンド、俺はショートで名コンビなのさ」
 そう言って煙草に火を点け競馬新聞を広げた横西さんに、今回の人事異動について聞いてみた。たとえ少部数のエロ本とは言え、僕は雑誌とは編集長のものだと思っていた。それが会社上層部の鶴の一声で別の部署に飛ばされてしまうのだ。何となく腑に落ちなかった。
「まあ、ウチの会社は基本的に社長のワンマン経営だからな。しかも編集者はほとんど寄せ集め集団だろ」
 それは島谷さんにも聞いていた。東京三世社という老舗の版元から社長が独立、そこで幾つかの出版社から編集者が集められたという。横西さんもその際、経営の傾き掛けた明文社という実話誌系出版社を退社してやってきた。
「島谷くんは新卒の生え抜きだからな、桜庭さんの下で鍛えたいという社長の思惑だろうな。その点、俺は外様だからさ、アッチへ行けコッチへ行けって便利に使われるわけだ。そうだ、ユーリ、表通りに泉屋、あるだろ? あそこには行くなよ」
 新宿通り沿いにはクッキーの老舗「泉屋」があり、二階は広々とした喫茶室になっていた。
「どうしてです」
「あそこは社長や桜庭さんたち、ウチの幹部が打合せに使うんだ。俺たち平社員やお前みたいなバイトは出入り禁止だ」
 そう言ってくっくっくと笑った。そして、
「よおし、ユーリ、この際だからちょっこっとだけ真面目な話すんぞ」と横西さんは煙草をくわえたまま、競馬新聞を閉じた。
「あのな、いいか、俺たち編集者ってのは野球選手とおんなじなんだ」
「野球選手って、プロ野球の?」
「そうだ。レベルは全然違うけどな、扱いは一緒だ。俺たちだってプロだ。草野球で本作ってるわけじゃない。雑誌が売れれば給料は上がる、社内での待遇もよくなる。反対に売れなきゃ窓際だ。下手すりゃ首になる。そういう世界だ。確かに俺の作る雑誌はそれほど売れない。だから都合よく飛ばされるわけだ。でもな──」
 横西さんは言葉を句切って煙草を灰皿で押し消した。
「エロ本って、そんなに売れる必要あんのかなって、俺は思うんだ。白夜書房の『写真時代』なんかは別だよ。アラーキーが巻頭撮って、糸井重里とかスゴイ人が書いてる、ありゃちょっと別格だ」
 桜庭徹郎の盟友でもある白夜書房・末井昭編集長の『写真時代』は創刊号が一〇万部スタート、二年目に入った今は十五万部に届く勢いだと言われていた。
「『写真時代』のことをよく、〈写真雑誌の皮を被ったエロ本〉という人がいるけれど、俺は逆だって見てる」
「逆?」
「ああ、そうだ。ありゃエロ本の皮を被った写真雑誌だ。要するに芸術だよ。文化だから何十万部も売れていい。要はエロという洋服を着せて、本来売れないはずの芸術を売り物にした。そこが上手いわけだ」
 確かにそうだ。アラーキーこと荒木経惟の写真は、女性の局部をギリギリまで露出させるなど、下世話で猥褻だ。けれど荒木と末井昭の共犯関係が、その下世話で猥褻な写真をアートの領域まで押し上げてしまったのが、白夜書房の『写真時代』という雑誌だった。
「それに比べてウチの雑誌な、桜庭さんの『ギャング(The Gung)』、社長の『ギャルズ・アクション(Gals Action)』、両方とも八万部出てる。堀川くんの『セクシーアクション』に至っては一〇万部を越えた」

 堀川徳光は、アダルト誌の中に「投稿雑誌」という新しいジャンルを作った画期的な編集者だった。プロのカメラマンの写真ではなく、読者の投稿写真をメインに構成する雑誌だ。横西さんが言ったように寄せ集め軍団だったこの会社初の新卒社員だったが、堀川は五年以上も映画雑誌のアシスタントをやらされ苦労したともっぱらの噂だった。
 映画雑誌とは、映画会社からピンク映画のスチール写真を借りてヌードグラビアを作り、ポルノ女優のインタビューや作品紹介などで誌面を埋めていくものだ。ただそういう記事ページは専門のピンク映画ライターに丸投げするので、僕や五十崎の同僚だったスズキくんの劇画雑誌同様、編集アシスタントにはロクな仕事が与えられない。
 毎日のように映画会社を駆けずり廻り、写真を集めてくるだけだ。しかしその間、堀川はジッと耐えて企画を練りに練り、会社からは何度も蹴られたものの、一度増刊号で「投稿雑誌」を作ったらそれがバカ売れした。なぜそんなに売れたかというと、当時高校野球甲子園大会でアルプススタンドのチアリーダーたちのパンチラを狙う、「カメラ小僧」と呼ばれる人種が生まれ始めていた。
 ハードウェア的にもミノルタから「α-7000」というオートフォーカスの一眼レフカメラが発売され、写真を撮るという行為のハードルが下がった。それまで写真と言えばプロのカメラマンか、あるいは「風景写真」や「鉄道写真」など、技術と金を要する中高年を中心とした裕福な趣味だったのだ。そこに若年層で、チアリーダーの太股やアイドルのパンチラなど、性的嗜好を追求する層が現れたのだ。オタクの元祖だったとも言える。加えてその背景にはパルコ出版の『ビックリハウス』や学習研究社の『BOMB(ボム)』など、読者の文章投稿が注目を集めるサブカルチャー雑誌の存在もあった。
 堀川は映画雑誌のアシスタントをしながら、会社の各誌にそういった若者たちからの投稿写真がポツリポツリと送られてきているのを見逃さなかった。それら素人の写真だけで一冊丸ごと作ってしまったら、彼らが熱狂して買うだろうという読みだった。そして、案の定大当たりしたのだ。
 雰囲気的にも長身でスタイリッシュな髭をたくわえて、桜庭徹郎とはまた違った意味で異彩を放つ人物だった。堀川徳光はやがて読者投稿にアイドル雑誌の要素を加味した、その名も『投稿写真』という雑誌を創刊。三〇万部越えの大ヒットを出すのだが、それはもう少し後の話になる。

「ハダカになる女の子たちってのはさ、色んな事情を抱えてるんだな」と横西さんは珈琲を口に運びながら言った。
「そりゃ、中には遊ぶお金が欲しいなんて娘もいるよ。でも俺が知ってる範囲で言えばさ、そんなのはごくわずかだ。親の借金背負っちゃった娘とかさ、彼氏が大学生で学費稼いでるとか、ひどい場合はヤクザに無理やり貢がされるなんて娘もいたよ。俺たちはそういう女の子たちのハダカで食ってるわけだ。だから俺は安月給でいいと思ってるし、会社もそんなに儲けなくていいじゃねえか。まあ、こんなこと言ったら怒られるけどな」
 少し前、二月のあの雪の日。野上カメラマンのマンションで裸になった、幼い顔つきの豊満な肉体の女の子はいったいどんな事情を抱えていたのだろう。確かに派手さのない、ごく普通の女の子だった。
「つまり俺たちゃ裏街道を歩く渡世なんだよ」横西さんは映画『座頭市』、勝新太郎の決まり台詞を引用してみせた。「俺は独りもんだしな。夜に酒が飲める金があって、週末に競馬がやれればそれで充分なんだよ。だいいち、金儲けのためにエロ本作るなんて、ちょっと悲しくねえか?」
 そして突然、「でもお前は俺が見た限りスジがいい」と言った。「表街道を歩けるかもしれないぜ」
 僕は答えなかった。信用できないという顔をしてると思ったのか、横西さんは「いいこと教えといてやる」と僕を指差した。
「お前の座ってるあの席な、出世席って言われてるんだ。お前の前にはメグロくんが座ってた。その前が堀川くんだ」
『本の雑誌』の発行人、目黒孝二さんが少し前まで嘱託でいたという話はアサハラから聞いたことがあった。椎名誠編集長による同誌は、一九七六年に自主制作のミニコミとして創刊。取次を通さない書店への直販というスタイルで当初は運営に窮したこともあったが、椎名さんが作家としてブレイクすると共に売れ行きも安定。これが昨年くらいのこと。そこで目黒さんは『本の雑誌』に専念するため、アルバイトの嘱託編集者を辞めたのだ。
「メグロくんと俺は前の会社で同期でな、お互い競馬と麻雀が好きだから意気投合した。でも彼は最初から俺とは違ったよ。表街道を行く人だと思ってた」
 そう言うと横西さんは「さて、そろそろ戻って仕事片付けちゃうか」とレシートを持って立ち上がった。

 約ひと月半前まで僕の席の隣に座っていた五十崎は、いつもライトボックスを机に乗せポジ選びをしていた。島谷編集長が本誌の他に隔月で増刊号を作っていたからだ。『My・美少女』というB5中綴六八ページの写真集だった。横西さんがそれを引き継いだので、当然そのポジ選びも僕の仕事になった。文字校正や原稿取り、ちょっとしたネーム(短い原稿のこと)書きに読者のお便りコーナーのレイアウトなどに加え、増刊のポジ選びが加わった。その頃から、やっと編集者らしく忙しくなってきた。
 前述したように特写のフィルムはセカンド、サード使用のため専用バインダーに入れ棚に並べられている。『My・美少女』は八人のモデル嬢が一人八ページずつ掲載される本文六四ページなので、八つのバインダーを選び、そこから写真を切り出していく。製版には一般的なネガフィルムではなくポジフィルムを使う。スライド映写にも使えるあのタイプである。ライトポックスとはその名の通り蛍光灯が埋め込まれた箱で、そこにフィルムを乗せ、専用のルーペで覗くのだ。
 フィルムは一部「ブローニー」と呼ばれる中型カメラに使用されるもの(六×六センチや六×八センチ)もあったが、主流は三五ミリなので、ルーペで拡大しないとピントが合っているかどうか判断できない。僕ら編集アシスタントはまずはしっかりピントが合っているもの、次に扉になりそうな外撮りのカットを選ぶ。そしてヌードは基本ワンポーズ一枚を切り出し編集長に渡す。それを具体的に構成してラフデザインを作り、デザイナーに発注する人もいれば、自分でレイアウトしてしまう人もいた。
 八人の女の子を選ぶわけだが、当時のヌードモデルというのは現在のAV女優とは違い、失礼ながら容姿端麗な娘は少なかった。なのでできるだけ可愛らしい娘を巻頭と巻末に選び、間は男モデルが絡んだり、局部ギリギリまで狙ったハードな写真を入れていった。それにしても様々な女の子たちがハダカになっていた。どの娘にも、横西さんが言ったような事情があるのだろうか。
 そんなことを考えながらポジ選びをしていたら、不意に横西さんが僕の肩をつついた。見ると電話の受話器を手にしていた。
「ユーリ、お前にだ」
 何かの間違いじゃないかと思った。僕に電話がかかってくるはずがなかったからだ。学生時代の友人とはすべて縁が切れていたし、親には出版社でバイトしていることは伝えたが、電話番号までは教えていなかった。
 訝りながら出てみるると五十崎だった。
 ずいぶんと騒々しいところからかけていた。そして、少し酒に酔っているようだった。
「今、渋谷で飲んでるんだ。来ないか?」
 彼は言った。
 壁にかかった時計を見るとまだ午後四時だ。
「よせよ、無理に決まってんだろ。まだ仕事中だぜ」
 そう答えていると、横西さんがまた肩をつついた。
「行ってこい」
 受話器を押さえながら見ると、
「名乗らなかったけど、五十崎くんだろう、島谷くんの下にいた」と言った。
 そしてこちらを見ずに原稿用紙に鉛筆を走らせながら、
「行ってこい。友だちは大切にしろ」と独り言のように呟いた。


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