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7月7日 100日で完成する本 5日目

・「ジェネレーター」というあり方

先ほど、「探究学習」の難しさについて書きました。その一つの要因は、指導者側のあり方の問題だと考えています。「教える」モードで子どもに接していると、やはり子どもが主体的に探究するといったことは難しいのではないでしょうか。

そこで新たな指導者のあり方として提案したいのが「ジェネレーター」というあり方になります。

『ジェネレーター 学びと活動の生成』以前のnoteにも書きましたが、これはとっても良い本です。今後は、わたしも「ジェネレーター」として活動していきたいと考えております。本書を通じてジェネレーターとしてのあり方とはどんなものか探っていきましょう。

まずは、ジェネレーターとはなんなのか。定義を以下に引用します。

ジェネレーターの定義

ジェネレーターシップとは、出来事・物事が生成することに参加し、(主客・自他の境界を溶かし、あいまいにしながら)そこで起きていることをよく見・聴き・感じ・拾い上げ、その出来事の内側でその生成を担う一部となるということ、そして、世界のそのような関わり方。

『ジェネレーター 学びと活動の生成』より

ジェネレーター、この言葉は初めて聞いた方も多いのではないでしょうか・言葉の響き的には、オペレーターのようなイメージを持つかもしれませんが、全く違います。

簡単に言うと、指導者の在り方を指す言葉です。著者は、指導者は時代によって2回変化してきたと言います。まずはじめに、「ティーチャー」や「インストラクター」の存在です。これらの役割は、知識を伝達すること。受け手はただ受動的に話を聞くのみです。これは、知識こそが全てだ!と言われた時代には必要とされてきたあり方です。

次が、「ファシリテーター」です。ファシリテーターは、ある集団の対話・コミュニケーションを促す役割です。自分はその集団の外にいて、対話を促すのがファシリテーターの特徴です。少し前は、ファシリテーターやワークショップが非常に流行っていたように感じます。

そして最後が「ジェネレーター」。

AIや人工知能が全盛の時代、先行きの不安な未来に必要なことは「協力して生み出すこと」です。これが、指導者がこの先の未来にとって必要なことです。

『ジェネレーター 学びと活動の生成』を読んで、私が「ジェネレーター」として重要だと感じていることを3点にまとめて書いてみます。

1 ジェネレーターは雑のプロ

したがって「ジェネレーター」いろいろな「雑」を集めて、記録しようとする「雑」のアーカイバーと呼べる存在です。さらに集まった「雑」を「仲間」と共有することを楽しむ「雑」のコラボレーターでもあります。雑を集め、雑談し、雑記し続けることを愚直に積み重ねるのです。こうして培われた知のネットワークが「ジェネレーター」の礎となり、偶発的に出「遇」う事実を見逃さない芽が育ち、こうしたら面白くなるのではと言う反応力を高めるのです。

『ジェネレーター 学びと活動の生成』より

ジェネレーターとは「雑」マニアということです。これは、最近流行っている「生産性・コスパ・タイパ」思考とは真逆をいっています。

例えば、雑談です。コロナ禍では、リモートワークが中心となり雑談は存在を消していきました。それが、コロナ禍を乗り越えつつある今でも変わっていないように思えます。

リモートワークで生産性を求めた結果、何か大切なものを失ったような気がします。生産性・合理性ばかりを突き詰めてしまえば、人間はゆくゆくはAIに取って代わられるのではないかとも思っています。

雑談ほど創造性があって、人間らしい活動なのではないかと最近は感じています。けっこういいアイデアは雑談から生まれる。

だからこそ私は雑談を大切にしたい。

そんなことを繰り返すことで、ふと良きアイデアが降ってくることがある。

だからこそ、雑を集めることは大切だし、楽しい。

2コミュニケーションをずらすこと

ジェネレーターの場合は、コミュニケーションをつなぐだけではなく、そこに新たな意味を付加して場に返す。そうすると、もとの発言の意図からはズレてしまう。ズレてしまう、というとネガティブに聞こえるが、そのズレこそが創造的であるということだ。コミュニケーションにおける多義性を限界・制約として捉えるのではなく、それをむしろ、新しいものが生まれる創造の余地として活かすのである。

『ジェネレーター 学びと活動の生成』より

コミュニケーションをずらす。あまり聞いたことがない言葉ですが、これも非常に大切だと考えています。一般的なイメージだと、コミュニケーションがズレるとあまり良くないと思いますよね。

空気が読めないやつ認定されたり、ちょっと何いっているのかわからないです(サンドウィッチマン)などなど。

だけど、私はコミュニケーションのズレは非常に創造的だと思っています。なぜなら、コミュニケーションのズレから起こる「雑」(ノイズ)が新たなものを生み出す余白を生じさせているからです。

ここでも「雑」という言葉が出てきます。「雑」は生産性から逃げだすために有効なキーマンなのです。生産性からは新たなものを創造することはできないと思っています。

なぜなら、生産性は自分が管理できる範囲でしか物事を考えないために、新たなものを創造する余地がないからです。

例えば、コロナ禍の運動会の出し物を決める時のことです。ある子が「パン食い競争をやりたい」と言って周りは「何言ってんの❓」という感じでした。

確かに、コロナ禍でパン食い競争は不可能です。しかし、私は「いいねえ、確かにやってみたい!」と言いました。他の子は戸惑っていたが、そのまま続けていきました。

次に、「じゃあどうやっていこうか」とどんどん意見を出し合いながら話し合いを続けました。

そして、結果的には「パン食い障害物競争」という内容で実際に運動会の種目として行うことができました。そして、なにより子どもたちが非常にいい顔で運動会に参加することができました。

この種目ができたのも、もともとは「コミュニケーションのズレ」だったように思います。だからこそ、これからも子どもたちがズレた発言をしてもそれをおもしろがり、ヒントにできるようなスタンスであり続けたいと思います。

3中動態とジェネレーターと主客合一

ジェネレーターが巻き起こす生成ということも、このような中動態で表されるような事態なのだ、と僕は考えている。つまり、自分も場の一部となり、自分たちのなかで何かが生じてくる、成長し、何かが見えてくる、そういう出来事が生成=ジェネレートということなのだ。

『ジェネレーター 学びと活動の生成』より

「ジェネレーターになる」という言葉は正確ではないようです。「気がついたらジェネレートしていた」という表現のほうが合っているかもしれません。

ところで、中動態とはなにか。

なぜ中動態に注目するのか。実は中動態のことを知ると、当たり前のものと思えていた能動と受動の対立が実は非常に不便なものであることがわかってくるのです。僕がよくあげる例は、「惚れる」です。みなさん、惚れるっていうのは能動ですか、受動ですか。(会場から 能動……。) 能動ですかね、でも自分で「惚れるぞ~」って言って惚れられないですよね。

 http://igs-kankan.com/article/2019/10/001185/

なんとなくわかりますかね。惚れるということは自分の意思ではどうすることもできないですよね。

惚れるという行為を自ら行うのではなく、他者に惚れるという感情が自分の内側から湧いてきてとどまっているのではないでしょうか。

だから、能動態は外部で完結するもの、中動態は内部で巻き起こるものと新たな対立軸が見えてきます。ジェネレートは外部と内部、どちらで完結するでしょうか。

定義を考えると、外部ではないように思います。自分の内側から感情が湧いてきて、結果的にジェネレートしていたという方が正しいのではないでしょうか。

ジェネレーター的要素が自分の中にとどまっていたなあと、何かを生み出した後に気づく感じです。ただ、自分に余白がないとジェネレートしていくのは難しいと思っています。やるべきことに追われていると、純粋に子どもと作ることを楽しめない。余白を作ることも大切ですね。

今度も、「ジェネ神」(自分で命名)が降りてくるように、子どもと共に一生懸命に生み出す活動を続けていきます。とりあえず、自分が楽しみ盛り上がっていきます。自作自演。

ひらめきや偶然をキャッチできるのは、偶然を待つのではなくて、何かを生み出そうとするプロセスの場に没入し続けているからだ。

『ジェネレーター 学びと活動の生成』より


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