ディストピア2-7

二年四組というクラスになってからどのくらい経ったかは忘れた。しかし、私は学校に行く。ただ、それだけのことが楽しかった。小学校と保育園のときもそれなりに楽しかったが、この時ほど楽しかった時期は後にも先にもないように思える。迷治学園という学校はこの世のユートピア、理想の場所であるような思いが、日々強くなっていた。家に帰れば、家族と喧嘩する毎日だったし、毎日会っていた曾祖母は亡くなったりということもあったが、学校にいる間は友人と過ごすことで辛いことを忘れることができていた。

あるとき、クラスの中で噂がたった。教壇に上がる時の足音によって教師の機嫌の良しあしが判断できるというものである。特に服田はそれが顕著であり、足音がでかい時は機嫌が悪く我々生徒がふざけていても冷たくあしらうだけであった。黙想をしていて、教師のドスドスという足音が聞こえたとき、我々は身を固くするのであった。
私は背筋を伸ばして目を閉じていた。頭の中で彼女のことを考えながら授業が始まるのを待っていた。まだ知り合っても間もない間柄ではあったが、それなりに関係は良好であった。彼女の好きなものは何かということや、彼女は普段どんなことをしているのかということを自分なりに想像していた。開いていた窓から、足音が聞こえてきた。コツコツという革靴が地面に当たる音である。
今日はふざけてもいいのだろうか。
英語の授業、いやすべての科目の授業を退屈に感じていた私は、教師が授業中に行う余談や生徒とのじゃれあいを大切に思っていた。もっとも、一般的に考えると愚かな考え方ではあるが。
ドスン、ドスン
服田がやけに大きな音を立てて、教壇に上がった。私は彼の顔を、目を半開きにして窺った。不機嫌だったのである。どういう理由なのかは知らないが、教師は兎に角、不機嫌であった。
私は心の中で退屈な授業が約束されてしまったことに落胆した。
「はい、じゃあ号令」
服田は生徒の方に見向きもせずに言った。クラスメートたちは互いに目くばせをしあって「今日はふざけずにいこう」という合図を非言語コミュニケーションを以って送っていた。
この日の授業は予想通り退屈なものだった。そのため、どんな授業だったか思い出すことができなかった。ただ、静かだったということだけは記憶している。視覚より、聴覚による記憶の方が頭の中に残っている。授業中にチョークが黒板に当たる音や音声テープが再生されていたことなど。何の変哲もない記憶しか頭の中に残っていなかった。
休み時間になった、退屈でありながらも緊張感のあった授業が終わると、神本や里田とともに談笑していた。すると、神本が突然とんでもないことを言い出した。
「服田先生って機嫌が悪いとき、足音で分かるよね?」
「うん」
「それがどうかしたの?」
私が訊いた。
「いやぁ、足音がドスンってなったとき、みんなが椅子から転げ落ちたらどうなるんやろうなぁ」
「やってみるか」
私と里田は二つ返事で神本の好奇心に応じた。
服田の機嫌が悪い時に、あえてふざけようという心意気はすぐさまクラスメートの間で広がった。中には彼を怒らせて最悪な空気になるのではないかという懸念をしている人もいたが、面白いことに命を懸けている連中にとってはそんなことどうでもよかった。しかし、まてどまてど服田の機嫌の悪い日はなかなか来なかった。

ある日、我々はいつものように着席していた。黙想をせずに、ただ静かに授業が始まるのを待っていた。
今日は機嫌が悪いのかな。
教室にいる誰もが、教師の機嫌が悪いという状況を期待していた。普通だったら考えられないような期待である。教師の機嫌なんて良いに越したことはない。しかし。我々は自分たちの目的遂行のためなら、自分たちの面白さのためならたとえ、殺人をも厭わないような漆黒の意志を持ち合わせているため、常識が通用しない節があった。
コツンコツン
足音がした。その瞬間一人が言った。
「今日、もしかしたら機嫌悪いぞ」
全員が身構えた。ある者は椅子から崩れ落ちてもいいように椅子を後ろにひき、スペースを作っていた。私も椅子を引いて構えた。
ドッドッドッ
革靴が鈍い音を立てて、こちらに近づいてくるのが分かった。明らかに機嫌が悪い時の足音である。教室の窓には背丈の高い人影が移動していた。
服田が引き戸を開けた。数歩、足を動かした。
ドン!
彼が教壇に勢いよく足を落とした。その瞬間、生徒全員が椅子から転げ落ちた。
「うわああああああああああ!」
富岡などは叫び声まで上げて豪快に倒れた。
服田は唖然としていた。何が起こったのか分からないといったような顔をしていた。
「え、何?何?」
困惑している教師とは対照的に、何事もなかったように座りなおす生徒たちというきれいな対比構造がそこにはあった。
「先生の足の衝撃波で倒れました」
ある生徒が答えた。
「え、どういうこと?」
「先生がドスンって音をたてて教壇に上った衝撃で倒れました」
「ああー」
教師は何かを理解したような様子だった。すると、次の瞬間、我に返って質問を投げかけてきた。
「え、それお前らで口裏合わせてやったの?」
「そうです」
「お前らすごいな」
教室の中でどっと笑いが起こった。作戦は成功だった。私は怒らなかった服田の反応に少々違和感を覚えたが、それよりも面白かったという思いが先行し、疑念はすぐに消えた。授業のチャイムがなったとき、教師が口を開けた。
「なんでこれをしようと思ったの?」
「先生の足音がでかい時は機嫌が悪いときだからです」
「ああ、俺の足音が、俺の機嫌を表しているということだったのね」
「はい」
私が答えた。
教師は納得していた。
「あのぅ」
服田は何かを言うべきか言うまいかといった様子で訥々と喋った。
「足音と俺の機嫌は何も関係ないぞ」
「え?」
意外な回答であった。私は唖然としていた。というのも、服田が足音を大きくしているときの授業では確かに空気の重さを感じていたからである。しかし、どうやらその空気の重さとやらは単なる思い込みに過ぎなかったものらしかった。
「今まで、お前らは俺の機嫌が悪いと思いながら授業を受けていたときがあったの?」
「はい」
教師は目を丸くし、手を叩いた。
「あ!だからなんだ。俺も授業やってて、今日は静かだなぁって感じるときがあったんだよ」
「そうですね、先生の足音がでかかったときはみんなでふざけないように一生懸命授業やってました。」
「ああ!そういうことだったのね」
生徒と教師は授業のときに感じていた、お互いの違和感を思いもよらぬきっかけによって解消したようだった。人間関係というのはときに些細なきっかけで崩れたり発展したりするものである。
この日の出来事も、我々二年四組の生徒一同と担任の心の距離を縮める思いもよらぬものであった。

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