危険と煙草を呑みながら 最終回

バリからジャカルタへと飛び立った。地球の青さを感じさせるような雄大な空の足元を飛行機で駆け抜けた。窓からみえるエメラルドグリーンの海が、床に散らばったガラスのように日差しを反射させて、キラキラと光っていた。
 日本に帰るための便まで八時間くらいあったため、空港でお土産を買ったりご飯を食べたりして過ごした。料金が高かったのがちょっと難儀だったものの、余ったインドネシアルピーを消費するにはもってこいだった。ジャカルタ市内で時間を潰そうと思ったが、キャリーケースを転がしながら市内を練り歩くのは億劫であった。ベンチで座り込んで映画を観たりスイーツを食べたりしていると、夜になった。飛行機に乗る前に煙草を吸おうと思って外に出た。
 人差し指と中指で煙草を挟んで、火種を上にして煙草を吸った。これまでバリにいたからなのか、やけに涼しいような気がした。頭の中で旅情を反芻しながら手を動かしたとき、小指が焼けるような痛さがはしった。
 「あっつ!」
考えるよりもさきに、声が出た。火種が指の上に落ちてきたらしい。落ちた煙草を拾うために体を傾けたときに、前方から豪快な笑い声が聞こえた。そこには、カウボーイハットをかぶった小太りの男性とひげが生えて貫禄があるものの、透き通った瞳をしていて、どこか若々しさのある男性が座っていた。どちらも日本人であった。私が簡単に自己紹介をすると、あちらもそれに応じた。聞くところによると、二人は友人関係で帽子をかぶっている方は会社経営をしているらしい。旅行が趣味であり、休暇中であったから二人でインドネシアに来たとのことだった。
 「君はなんで、インドネシアにこようと思ったの?若い子ならアメリカとかヨーロッパに行きたがるんじゃないの?」
新しい煙草に火をつけて、私は答えた。
「インドネシアに興味があったんですよね。アメリカとかヨーロッパに行くお金が無かったわけじゃないんですけど、整備されている国に行っても面白くないなって思ってたんです。」
「面白いねぇ。何か、目的の場所でもあったの?」
「イジェン火山っていう、青い炎が見れる火山に登ることが目的でした。結果的には、青い炎を観ることはできませんでしたけど、めっちゃ楽しかったですよ。危険地帯だから知らない外国人と言語も通じないまま、助け合うんですよね。個人的にはそこにすごく感動して、人って本当は悪い生き物じゃないんだなって思いました。」
「それは素敵だね。ほら、旅行ってさ出会いが大切じゃん。特に君のように一人で歩いている場合は、誰かと出会って、その人と一緒に旅行できたしたら最高だろうしね。僕たちも、今回は香木を求めてインドネシアに来たんだけど、たまたま香木を作っている人と仲良くなって、安く買うことができたのよ。」
「まじっすか!?たしか、香木ってものによってかなり高いですよね?」
「そうそう。ものによってはグラム単価が金よりも高いよ。」
「金よりも高いんですね。」
私は友人や家族と話すときよりも大げさに反応しつつ、相手の言葉に耳を傾けた。話がひと段落したからなのか、三人の間に無言が流れた。吸殻を下に捨てて、腕時計を確認すると、小太りの男がベンチに置いた帽子をかぶりなおして、
 「まぁ、でもこの出会いも素敵だよね。君がやけどしなかったら俺たちはこうして喋ってない。今、この出会いが君の将来に影響を与えるかは分からないけど、人生に大きな意味をもたらす出会いは、案外ちょっとしたことで、たとえばそれは、道端の石ころを蹴り上げたところから、はじまったりするのかもしれないね。」
 「そうですね。今回の旅行で僕はいろんな人に出会ったんですけど、明日からインドネシアでの出会いが人生の役に立つとは思えないんですよね。でも、だからといってそれが、人生において死ぬまで意味をなさないかというと、そういうわけでもない気がするんです。ていうか、自分で意味を与えるかどうかだとも思います。」
 「そうだよ。俺も経営者って道を選んだからこそ分かったんだけど、結局のところ自分がどうかなんだよ。」
彼らと話していると、時間があっという間に過ぎた。時間は八時近くになっていた。飛行機のチェックインまで、あと一時間程だった。話が落ち着いてきたので、我々は礼をして別れた。
旅とは不思議なものだ。今回のインドネシアの旅はすべてがバラバラだった。いろんな人と出会ったが、その意義や思い出の形は、パズルピースのように一つひとつが違った。でも、さっきまで話していた男性との会話を反芻していると、その出会いたちが重なり合って一つの思い出になった。それは深いところでは共通点があったからなのかもしれない。
私は空港に入って、手荷物検査を終わらせた。機内食を申し込んでいないため、腹ごしらえをする必要があり中華料理屋に並んだ。

店の中に入って、炒飯と水を注文した。しかし、まてど暮せど、注文が来なかった。飛行機のチェックインまであと50分もない。出国検査があることを考えると、もうそろそろ店をでなければいけなかった。注文しているのに、店を出るわけにはいかなかったので、前を通りかかった店員にご飯はまだ来ないのかと聞くと、すぐに炒飯が出てきた。おそらく、忘れられていたのだろう。こっちは急いでいるのに店側の不手際で待たされていたことが分かると、かなりイライラした。しかし、感情を荒げてもいても仕方が無かったので、私はそれをわんこそばでもたべるかのように急いで食べ、店をあとにした。その時点で時刻は21時35分。もう、間に合わないことは確定していた。胃袋の中に入ったチャーハンを揺らしながら出国検査まで走った。到着したときの光景をみて、私は絶望した。
眼前には長蛇の列。とても、5分じゃ検査を終えることはできない。
航空券を無駄にした。私は10万円を捨ててしまった。そう思いながら周りを見渡していると、一つだけ検査官がいるにも関わらず人が並んでいない場所があった。テーブルの前にはクローズの文字が書かれた画用紙が立てかけられていた。背に腹は代えられないので、私はいちかばちかでそこに向かって走り、強引に出国検査をしてもらおうとした。
「すみません。飛行機があと五分後に飛び立つから私だけここで出国検査をしてほしい。」
「それはできない。」
あっさりと断られた。ただ、ここで引くわけにはいかなかった。できる限りのことを尽くさなければいけない。
「遅れたのには理由がある。とんでもないトラブルに巻き込まれたんだ。」
「なんだ?トラブルって?」
ひとまずは勝った、と心の中で思った。とりあえず、話を聞いてもらえるところには持ってこれたのだ。しかし、本番はここからであった。これから、もっともらしい嘘を理路整然に喋りながら作らなければいけなかった。
「料理屋で店員と揉めた。」
私は抽象的な言葉を使って時間を稼いだ。
「トラブルってなんだ。」
「料理を注文した。でも、一時間たっても、二時間たっても料理が来ない。お金を先に金を払っていたから店を出るわけにはいかなかった。そこでおれは何回も店員に文句を行ったが、二時間たっても料理はこなかった。そこで面倒なことになった。それが理由だ。」
保安検査官はぶしつけな顔をして、出国検査を済ませた。パスポートを渡すときに、次からは気をつけろ。今回のミスはお前のミスで空港側のミスではないと言われたが、私は安堵のあまり、かぶせるようにありがとうと言って搭乗口に向かって走った。ここまでのやりとりにかかったのは僅か三分。あと、二分は余裕があった。私は搭乗口に向かって走った。息が切れたことに構わず全力で走った。すると、前方からセグウェイに乗った空港職員が私の方に向かって何かを叫びながら近寄ってきた。
「シンペイタケシタ?」
「そうだ。」
「急いで!もうすぐ、飛行機が飛び立つわよ!」
走っても走っても、搭乗口にはつかなかった。運が悪いことに、日本航空の搭乗口は国際線ターミナルの一番奥にあったのだ。五分程遅れてようやく飛行機に乗ることができた。機内の客席から向けられる視線をなんとか耐えながら自分の席に座った。私のせいで、飛行機の離陸が遅れてしまったのだと思い、申し訳ない気持で現実から目沿背けるようにして窓の景色を眺めた。ごめんなさいという謝罪の気持ちと仕方がないことだという合理化の気持ちが胸の裡でごちゃごちゃしているとき、機内アナウンスが流れた。
 「みなさまこんばんは、機長の中島です。ただいま、離陸時間を五分すぎていますが、手荷物検査を終えたにもかかわらず、搭乗口にお越しになられていないお客様がいるために、もうしばらくお待ちいただくことになります。定刻通りに離陸できず、まことに申し訳ございません。」
なんと、私よりも遅れている人がいたのである。そのおかげもあって、飛行機に乗ることができた。私ほど時間にルーズな人間はいないと思っていたが、そうではなかった。世界は広いのである。井の中の蛙であった。
それからまた5分くらい時間が流れて、遅れた張本人が入ってきた。ドレッドヘアの黒人男性でスマホを見ながら自分の客席へと向かっていた。まるで、自分は遅刻をしてはいないと言わんばかりのその堂々とした歩き方に圧倒された。彼が飛行機に乗ったことが確認されると、飛行機は大きなエンジン音と共に動き出し、スカルノハッタ空港を発った。私は窓の外からみえる、星空のようなジャカルタの夜景を呆然と眺めていた。
 これでよかったのだ。終わりよければすべてよし。
高度一万メートルの空を眺めた。ずっと見ていると、ぽつぽつと星が見えはじめ、間もなくすると視界いっぱいに無数の星が見えた。あれがデネブ、あれがベガ、あれがアルタイル…。とひときわ輝く小さな宝石をぼんやり眺めているといつしか眠りについた。目を覚ましたころには、日本の優しい西日が私の右手を金色に染めていた。

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