外交官は大変だぁ 張騫(ちょうけん)
オヤジブログ怪気炎 vol.211
世界史気になるシリーズ 28
前回210で匈奴の王 冒頓単于に漢が貢ぎ物を送っていた時代のことを書きました。プライドの高い漢がいつまでもそれを続けているかはずがありません。武帝の時代に大月氏国と連携して匈奴を挟み撃ちにしよう計画し、派遣された外交官が張騫です。
しかし、赴く途中匈奴に捕えられてしまいます。様々な理由が考えられるでしょうが、当時の漢は、西方域の地理についてまったく不案内で目指す国へのルートもはっきりわかっていなかったらしい。外交官というよりほとんど探検家であります。
捕まった張騫は、大月氏国へのルートを教えてもらうどころか、10年に渡り勾留され、その間に匈奴人の女性と結婚して、子どももできました。そのまま平和な家庭生活を送るかと思いきや、実は当初の使命を忘れていなかった張騫は脱走し、大苑(フェルガナ)でルートを教えてもらい、大月氏国に辿り着きます。大月氏とは、パミール高原の東側にいた民族ですが、匈奴の侵入により西へ西へと移動していたのです。張騫が来訪した頃は大夏を服属させて国は豊かになっており、匈奴への復讐心はすでに過去のもの。漢と同盟して挟み撃ちにしようという計画は受け入れてもらえなかった。
やむなく張騫は漢に帰ろうとしますが、その途中またしても匈奴に捕らわれてしまう。今度は一年余後に、匈奴の内部分裂の隙をついて脱出。母国漢にようやく帰り着いたのは、出発から13年が経っていた。この時に匈奴人の妻が共に漢に来ています。
その後も匈奴との戦争に加わったり、インドへのルートを探って滇国とつながったりしている。
武帝による2度目の派遣は、烏孫国へ。しかし烏孫国の王は漢という国の存在を知らず、国内も分裂状態にあり、匈奴への挟み撃ち計画はここでも受け入れられることはなかった。けれど漢に戻る時、烏孫の者を数十人連れて帰ったので、彼らを通じて西域に大する情報量が格段に増えた。
推測の域を出ないのですが、当時は音楽に関して西域諸国の方が断然豊富な楽器群を用いていたので、琵琶などもこの時期に中国に伝えられたのではないでしょうか。
外交官としては、何度も捕まり肝心の交渉も不成立ばかりであったのですが、後の唐王朝時代のシルクロードと呼ばれる交易路は、張騫の働きによって開かれたと言っていいのでしょう。
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