思い出の先生の記録Ⅰ


K先生は中学時代の数学の先生だ。

腰ほどまである栗色の髪をいつも2つの三編みに結っていた。足元はわらじで、割烹着姿。石灰アレルギーがあるとかで、いつもチョークを持つ腕を肘まで覆うピンクのゴム手袋をしていた。


私が1年生のとき。

定期試験の数日後、採点済みのテストを配布し終えた先生に一人の生徒が「クラスの平均点を教えて下さい」と言った。

先生は少し静止したのち、

「平均点を知って何になるのかわからないけど。これじゃだめなの?」といって点数のクラス分布図を黒板に描いた。

納得で教室がかすかにどよめいた。12歳の私は「平均」という概念について考える機会を得た。


2年生のキャンプのとき。

私が集団をはぐれて1人で山道を歩いていると、早乙女のような出で立ちのK先生に声をかけられた。「あの、山菜をとって炊いたんだけど。いかが?」


先生の手元のキャンプ用の鍋では、「のび太と恐竜」でしか見たことがないようなサイズ感のゼンマイが煮えていた。

先生のおかげで、キャンプのほろ苦さは山菜のものであったと記憶を上書きできた。



3年生のときに先生は退職された。

40歳手前だったかと思う。

秋だった。学年全員が集まる好機だからと、先生は体育祭が終わったあとの運動場で退職の挨拶をした。


先生は、少し疲れたので退職しますと言ったあと、こんなことを話した。


「人間は金じゃないと言っている奴は金がある、学歴じゃないと言っているやつは高学歴だ」

これから社会に出る君たちへ、という題目も何もなしに、ただそれだけを言った。

それが先生の挨拶だった。


運動場から教室に戻るとき。周囲の話題はすでに体育祭のことに切り替わるなか、私は先生が提示した命題について考えていた。

…たしかに、私が「人は容姿じゃない」と考えることはあリ得ない。「人は運動神経じゃない」とも、「整理整頓ができても何の役に立たない」とも、私が言うことは断じて一生ない。

(私は自分に長けているものが思いつかなかったので、無意識のうちに「逆もまた真」のサンプルばかり集めていた)

15歳の私は科学実験にはしゃいだ小学生の頃の気持ちで、すごい真理を知ってしまったと興奮した。


そして最後の授業の日。

先生は生徒ひとりひとりに手紙をくれた。私宛の手紙にはこう書かれていた。


「数学に真摯に向きあってくれてありがとう。少しマイペースという印象もあります。ともあれちいさんぽさん色の人生を描いていってくださいね」


当時私は、一部の先生に「教師をなめている」と咎められていた。授業中に挙手をしない、その非積極性に対して。


私はペーパーテストを解くことに苦はなかったが、授業にリアルタイムでついていくことが容易ではなかった。何故挙手をしないのか。それは、実際その時は「わからないから」にすぎない。

今では「そういう脳のタイプだろう」と思えるが、14歳当時はそんな風に自分を客観視、相対化できなかった。なぜ自分は手を挙げない?先生がいうように、先生をばかにしているの?

先生から突きつけられた「傲慢」「不遜」という人間像と自分とが一対一で結び付き、私は小さくない絶望をかかえていた。


そんな私のことを、K先生は「マイペース」だと書いた。褒め言葉ではなかろう。
でも、「不遜」以外のカードを与えられたことは、わけのわからない自責の沼に足をとられていた私を大きく救ってくれた。

先生はそれを、私のあんな言動やこんな言動をふまえた厚みのある分析としてではなく、

「今年の夏は暑いね」というくらいの軽みで伝えてくれた。それもまた、そよ風のように肌なじみがよくて不思議な心地よさがあった。



そうして中学を卒業して5年を経たある日、私は大学の構内でK先生を見かけた。


屋外のベンチで昼食を取っていたとき、大学図書館に見覚えのあるシルエットが吸い込まれていったのを見た。三編み、割烹着、わらじ。5年前と異なるのは、ピンクのゴム手袋のかわりにアンデス風の毛織棒をかぶっていること。

疑いようもなくK先生だった。


K先生は私と同じ学部に在籍し、2つとなりの研究室で哲学を専攻していた。5年前の体育祭のあの日、運動場に立つ先生の目線はすでに学問に向いていたのだ。


その後なんどもK先生と構内ですれちがった。でも私は先生に声をかけることはできなかった。K先生は当然私のことは忘れている。なんせ当時ほとんど会話をしたことはない。それを補う気の利いた声掛けができる自信がなかった。


それからまた20年近くたった。これをすれば良かったと思うことは滅多にないが、大学でK先生に声をかけられなかったことへの悔いは、いつも胸の奥底でしこりのようにうずく。

ワラビが嬉しかったこと。平均について考えたこと。やっぱり私は「人は容姿じゃない」と思うことは一度もなかったことや、「人は〇〇だ」構文を使う人がいない職場で働けていることを話したかった。

先生がなんて言ってくれるのかを知りたかった。

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