鈴木大拙を少し考えてみる

無の理解はたしかに凄かった。神道を否定する論の根拠は明確に理解を得られなかったし、その論を使って、仏教の否定は同様に出来てしまう。とは言いつつも名誉を、西行の功績に似て、世捨ての気質を持ったひとの割にはそういう所に庇ったことに成る。現実感覚を多少評価しても好い。はたけとして、希少価値の部分と成ってくる。明恵の宗教史における功績もそこそこ高いと私についてはおもっている。五木寛之の親鸞理解にある程度の共感も示せる。弟子の役割の大きさ。世間との接点を作っている。そういう事を侮らなかった。宗教者と成ると、侮る人は、多い。伝統的宗教も特に根拠には成らない。この程度の厳しさは敢えて重視する程に重要におもいはする。その論法は、井上靖における世をすねる事の懐疑と、やや似ている。逃避なら誰をとっても出来ると想うのは厳しくは、あるまい。
円相は、持続可能とやや連なる概念の亜流と見て差し支えない。もっとも、宗教から見ると、これを主軸に置き、むしろ世間に染まった実学は、後になる事に成ろう。
伝わる考えという節度は、あるようにおもう。仮にいかなる分野とて。
この点の功績を1つには、特筆は出来る。

循環のなかに、無明という悪い状態も昇華出来ないと、文化の仏教的にはカルマは、克服出来たことに、成らない。初心の惑いとの接点を、断絶し、捨てる正義を振り翳し、大乗的な、つまり、苦しみの共助としての宗教の役割を失った時、ややその宗教は、社会性から、見捨てられてもおかしくない合理的理由を、創ってしまった事には成る。
実際には、宗教にも現実は必要な理由は、ここに窺える。
そういった接点を、ある程度は意識的に重視をしていた。
その範囲の評価はしたい。
無を原点とすると、無に還るのは怖くない。その論拠、根拠からのフットワークは、彼を特徴付け生かしていた。異文化に分野柄、比較的には強かった。
以上と、しておく。

相互援助そのものは、大切と、思います。有償のことをする余裕を持って、無償の活動を敢えてする系のスタイルを、とってます。 プライスレスに、人生を再始動したい人には情報を提供出来るかなとおもいます。OK??? 企画倒れは充分警戒したいし、格闘技なら階級低め、組織ならNPOは、穴場。