『記憶する体』を読む#3 メモを取る全盲の女性
前回は究極のローカル・ルールを読んだ。
究極のローカル・ルールを携えて、メモを取る全盲の女性の固有性に迫っていこう。
見えなくなって10年
インタビューに応じてくれたのは西島玲那さんという方で完全に見えなくなって10年以上経っているとのこと。前回でも触れたが玲那さんのメモを取る能力は見えなくなってからもまったく劣化していない。これを著者は鮮度を保ったまま真空パックされているかのようだと表現している。そのメモは記録のためではなく、自分の話を整理するためのものだという。彼女の筆記用具はタネも仕掛けもないA5に折られたチラシの裏紙と鉛筆。数分前に書いたところに戻ってアンダーラインを引いたりできるが、本人曰く「な~んも考えてない」とのこと。さらに驚かされたのは地図をやすやすを描けること。線路や家などの空間的な関係を正確に描くことができるのだ。
物を介して考える
テトリスの例を用いて説明されている。落ちてくるピースを眺めているだけではむずかしいがそれを回したり移動させたりすれば答えは出てくる。つまりわたしたちは「見ながら考える」という視覚的なフィードバックを組み込むことで自分の脳だけではできないような複雑な思考を簡単にこなすことができる。
イメージ的なフィードバック
玲那さんは文字通りの視覚を用いているのではなく、頭のなかにメモのイメージを思い浮かべ、そのイメージを手がかりに別の文字などを書き加えている。
机も「見て」いる!
見えないのだから、頭のなかに「書いて」いけばいいのに、玲那さんは紙に書くことをやめない。頭のなかにイメージを思い浮かべるのと、書いたものを頭のなかでイメージするのでは、決して同じことではないらしい。もともと自らを「文房具大臣」と呼ぶほどに文房具に興味があった玲那さんは自分が書いている文字や数字だけではなく、紙や机もイメージしている。
絵のなかで迷う
玲那さんはメモだけではなく絵を描くこともしている。油絵具、コンテ、ペンなどを用い様々なモチーフを毎日のように描いているとのこと。その理由を知りたいと思った。
彼女の描き方は次のように説明されている。
毎日がはとバスツアー
視覚障害者を介助してくれる方たちは言葉で丁寧に説明してくれる。たとえばトイレにしても事細かに説明が続く。自分としては早く用を足したいのだが我慢して延々と説明をきいてしまう。
とっちらかった自分を取り戻す
確かに見える人は親切だし介助を受けているのは楽だが、必ずしも当事者のニーズに合っているわけではない。介助者に自分を合わせるような「受け身のうまさ」が求められることになる。障害者というお客さんを演じているうちに玲那さんは自分が誰だかわからなくなる。その傷ついた状態にあって、絵を描くことがリハビリになった。玲那さんは次のように語っている。
「ものを作るという作業をしていくと、自分が何を求めているのか、何を知りたいのか、ということの基盤が、見える/見えない、サポートしてほしい/してほしくないということとは別に具体化していくんです」
さいごに
玲那さんは「書く」という行為がもともと大好きで、ずっと書くことでものを考えてきて、見えなくなってもそのやり方を続けてきたから書く能力が真空パックのまま保持された。この事実は驚異であると同時に希望だと思った。わたしたちは可能な限り自分の好むやり方で日々を営もうとしているが、その営みがわたしたちの体を作っていくということは、たとえどのような障害を得たとしてもそれまでの経験を記憶した体とともに生きていけるのではないかと考えた。
毎日はとバスツアーという状況になった玲那さんは絵を描くという誰にも邪魔されない自分だけの世界を作り上げていくことで自分自身を取り戻すことができた。「絵を描く」つまりはものを作るという行為は障害があるのにと特別視するようなものではないという当たり前のことを突きつけられた。
玲那さんは見えなくなっても「書く」能力を用いて世界を認識し続けているし、他者の干渉を許さない自分だけの世界を持つために絵を描き続けている。つまり彼女はよりよく生きるために持てるスキルをフルに活用して今を生きている一人の女性なのだ。メモを取る全盲の女性というタイトルには度肝を抜かれたけれど、読み終わってみれば人の不思議さとたくましさを再認識させられる結果となった。
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