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『記憶する体』を読む#3 メモを取る全盲の女性

前回は究極のローカル・ルールを読んだ。

究極のローカル・ルールを携えて、メモを取る全盲の女性の固有性に迫っていこう。

見えなくなって10年

インタビューに応じてくれたのは西島玲那さんという方で完全に見えなくなって10年以上経っているとのこと。前回でも触れたが玲那さんのメモを取る能力は見えなくなってからもまったく劣化していない。これを著者は鮮度を保ったまま真空パックされているかのようだと表現している。そのメモは記録のためではなく、自分の話を整理するためのものだという。彼女の筆記用具はタネも仕掛けもないA5に折られたチラシの裏紙と鉛筆。数分前に書いたところに戻ってアンダーラインを引いたりできるが、本人曰く「な~んも考えてない」とのこと。さらに驚かされたのは地図をやすやすを描けること。線路や家などの空間的な関係を正確に描くことができるのだ。

見えていた10年前までの習慣を惰性的に反復する手すさびとしての「書く」ではなくて、いままさに現在形として機能している「書く」。[…]全盲であるという生理的な体の条件とパラレルに、記憶として持っている目の見える体が働いている。まさにダブルイメージのように二つのまったく異なる身体がそこに重なって見えました。

(伊藤亜紗『記憶する体』p32)

物を介して考える

テトリスの例を用いて説明されている。落ちてくるピースを眺めているだけではむずかしいがそれを回したり移動させたりすれば答えは出てくる。つまりわたしたちは「見ながら考える」という視覚的なフィードバックを組み込むことで自分の脳だけではできないような複雑な思考を簡単にこなすことができる。

イメージ的なフィードバック

玲那さんは文字通りの視覚を用いているのではなく、頭のなかにメモのイメージを思い浮かべ、そのイメージを手がかりに別の文字などを書き加えている。

机も「見て」いる!

見えないのだから、頭のなかに「書いて」いけばいいのに、玲那さんは紙に書くことをやめない。頭のなかにイメージを思い浮かべるのと、書いたものを頭のなかでイメージするのでは、決して同じことではないらしい。もともと自らを「文房具大臣」と呼ぶほどに文房具に興味があった玲那さんは自分が書いている文字や数字だけではなく、紙や机もイメージしている。

玲那さんは、もともと自然に手が動くほど書くことが好きで、見えなくなってからも日常的に書く習慣を続けてきたからこそ、「見えるようにイメージする能力」が高まったのかもしれません。

(伊藤亜紗『記憶する体』p40~41)

絵のなかで迷う

玲那さんはメモだけではなく絵を描くこともしている。油絵具、コンテ、ペンなどを用い様々なモチーフを毎日のように描いているとのこと。その理由を知りたいと思った。
彼女の描き方は次のように説明されている。

まず、紙の上に線を一本引いてみる。それが女性の髪の毛に見えたら、脇に目を加えてもいい。鼻筋を描き、陰影をつけてみようか。場合によっては輪郭は省略してしまってもいい— 玲那さんの絵はそんな風に出来上がっていきます。[…]玲那さんは「楽しさと苦しさ、どっちが来てもいい」といいます。迷子になりそうで悶絶しながら描くこともあります。迷子になった理由を考えてもしょうがないので、次に描くときは、そこをもっとズームアップしたりして描いたりしますね。悶絶しているあいだにモチーフの新しい面を発見できるんです。わりと無になっている感覚がちょうどいいんです。

(伊藤亜紗『記憶する体』p42)

毎日がはとバスツアー

視覚障害者を介助してくれる方たちは言葉で丁寧に説明してくれる。たとえばトイレにしても事細かに説明が続く。自分としては早く用を足したいのだが我慢して延々と説明をきいてしまう。

結果として起こるのは、障害がある人が、障害がある人を演じさせれてしまう、という状態です。「障害を持った方としてのステイタスをちゃんと持たないと、どんどん社会不適合者になっていくなと思って、言葉で説明していただいたものを『はい』『はい』と聞いていました。『ちょっと坂道になっています』とか、毎日毎日はとバスツアーに乗っている感じが(笑)、盲の世界の窮屈なところだったんですけど、それに慣れていくんです」。そうなると、周囲を知覚するにしても、自分の感覚で情報を得て構成するのではなく、介助者の言葉によって世界が作られるようになります。見えない人を守るための保護膜であったはずの介助者の言葉が、見えない人を世界から切り離す隔離壁になるのです。[…]それは自分の感性で感じる、世界に直接触れる手触りを失っていく過程です。感覚に対して言葉を探すのではなく、言葉に対して感覚を再生する状態、便利だけど後追い中心のはとバスツアー的リアリティのなかで、玲那さんは、次第に自分自身のことも見失っていきました。

(伊藤亜紗『記憶する体』p44~45)

とっちらかった自分を取り戻す

確かに見える人は親切だし介助を受けているのは楽だが、必ずしも当事者のニーズに合っているわけではない。介助者に自分を合わせるような「受け身のうまさ」が求められることになる。障害者というお客さんを演じているうちに玲那さんは自分が誰だかわからなくなる。その傷ついた状態にあって、絵を描くことがリハビリになった。玲那さんは次のように語っている。
「ものを作るという作業をしていくと、自分が何を求めているのか、何を知りたいのか、ということの基盤が、見える/見えない、サポートしてほしい/してほしくないということとは別に具体化していくんです」

日常生活では、望む/望まないにかかわらず言葉を与えられる側にあった玲那さんが、絵を描いているときは、誰にも煩わされず、自分で判断を下すことができる。だからこそ、「絵のなかで迷うこと」が意味を持つのです。[…]「書くこと」を通して、玲那さんは自分の体と物理的な環境をダイレクトに結び付け、他者が介入しない自治の領域をつくり出します。[…]書く能力を保持することは、玲那さんにとっては、一時的な自律状態を作り出す手段なのです。[…]まさに玲那さんの体の固有性の核に「書く」という行為があります。もちろん現実には、さまざまな介助の手を借り手でないと日常生活が成り立ちません。玲那さんはそのことについて声高に怒るわけでもないし、あるいは逆にその現実になじんで「障害者」になってしまうわけでもありません。身体を多重化させることによって、玲那さんは環境と自分をつなぎなおし、社会と自分をつなぎなおしているのです。

(伊藤亜紗『記憶する体』p46~48)

さいごに

玲那さんは「書く」という行為がもともと大好きで、ずっと書くことでものを考えてきて、見えなくなってもそのやり方を続けてきたから書く能力が真空パックのまま保持された。この事実は驚異であると同時に希望だと思った。わたしたちは可能な限り自分の好むやり方で日々を営もうとしているが、その営みがわたしたちの体を作っていくということは、たとえどのような障害を得たとしてもそれまでの経験を記憶した体とともに生きていけるのではないかと考えた。
毎日はとバスツアーという状況になった玲那さんは絵を描くという誰にも邪魔されない自分だけの世界を作り上げていくことで自分自身を取り戻すことができた。「絵を描く」つまりはものを作るという行為は障害があるのにと特別視するようなものではないという当たり前のことを突きつけられた。

玲那さんは見えなくなっても「書く」能力を用いて世界を認識し続けているし、他者の干渉を許さない自分だけの世界を持つために絵を描き続けている。つまり彼女はよりよく生きるために持てるスキルをフルに活用して今を生きている一人の女性なのだ。メモを取る全盲の女性というタイトルには度肝を抜かれたけれど、読み終わってみれば人の不思議さとたくましさを再認識させられる結果となった。

次回へ続く。


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